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正道は悔しそうに唇を噛み千代を見た。志乃も青い顔をして口元を押さえ沈痛な顔をする。しかし、千代はそんな両親の視線に応えることなく、ただじっと吉岡を見つめるのみ。千代が再びニコリと微笑むと、青眼が一瞬その色を濃くした。ゆっくりと千代の唇が言葉を紡ぎ出す。その声はいつもよりも低く室内に響いた。
「□QHD&*T‘C$US‘S……&_TMK?。NK=S‘&D+」
正道たちはその言葉を全く聞き取ることが出来なかった。どこか不思議な響きを帯び、まるで異国の言葉のように聞こえるそれを耳にした途端、正道は全身に鳥肌が立った。まるで金縛りにでもあったかのように身動き一つ取れない。それは志乃も同じだったようで、青い顔をして息を飲むばかり。吉岡に至っては、額から一瞬にして大量の冷や汗が流れ落ちた。
「な……なに?」
それでも、吉岡は声を震わせながら千代に向かって手を伸ばした。しかし、その手は千代に触れることなく宙を彷徨い、程なくしてそのまま力なくダラリと下がってしまった。
千代の凍てつくような冷ややかな瞳が再度煌めく。次の瞬間には、千代が不思議な言葉を発したことなど誰の記憶にも残っていなかった。誰もがぼんやりとした顔をする中、千代は先程までの出来事など全くなかったかのようにニコリと笑う。
「若様のお加減が心配ではありますが、わたくしが吉岡様と共にすぐにこの家を出てしまっては、後に残されます父や母の事が今度は気がかりとなってしまいます」
その言葉に、正道はハッと意識を取り戻した。思わず前のめりになる。
「千代!」
しかし、千代は小さく微笑んだまま目を伏せた。そして、再び口を開く。
「吉岡様。どうか両親との別れの時をしばし頂くことは叶わないでしょうか?」
「千代っ!」
正道は思わず娘の名を呼んだ。しかし、千代は正道の声に応えない。千代は潤んだ瞳を吉岡に向ける。
「わたくし、吉岡様のご厚意に甘えさせて頂くことは出来ないでしょうか?」
なんとも儚げで可憐な様子に、吉岡は思わずゴクリと喉を鳴らした。
「し……仕方ないな」
吉岡は頬を赤く染めてそう言うと、すっかり大人しくなった。
正道にはもう千代の真意など分かるはずもなく、ただ黙って成り行きを見守る他なかった。志乃はオロオロとするばかりで、ずっと何も言えずにいる。
「ありがとうございます吉岡様。吉岡様が御心の広い方で大変安堵致しました。千代はそんな吉岡様のお力になりとうございます」
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