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旗本の姫様
身分の上では、旗本の養女となった千代だったが、その生活はこれまでと何ら変わりのないものであった。千代はこれまでと同じように過ごしていたし、養い親であった正道と志乃も表面上は普段通りの生活を続けていた。
吉岡がやって来た時に同席していなかった太郎が後から事の次第を聞かされ、慌てて千代を問い質すということはあったが、当の千代はさして気にした様子もなく、まるで他人事のように淡々と太郎に語った。
「姫様はそれで本当に宜しいのですか?」
千代のことを案じ、太郎が心配そうに問いかけても、千代はただニコリと微笑むだけ。まるで初めからこうなる事を分かっていたかのように、落ち着いた様子を見せていた。
太郎もそんな千代の様子に何も言うことが出来ず、誰もがその事については口にしない日々が続いた。
江戸の町も晩秋を迎え、朝晩は冷えるようになってきた頃のこと。その日、正道は早番で早朝から出仕し家を空けていた為、千代と志乃の二人が留守番をしていた。昼を過ぎた頃から降り出した雨は徐々に強くなり、雷を伴う激しい雨となった。
「雨が強いわね。旦那様のお帰りはまだかしら?」
志乃が外を気にしながらそう呟いた。外は暗く、雨足はどんどん強くなる。
「このように暗いですが、まだお帰りの時間までには少々ありますよ?」
千代は志乃の言葉に首を傾げる。志乃はそんな千代の言葉に小さく頷きつつも、どこかまだそわそわとしている。
そんな志乃の心配を煽るように、空はドンドンゴロゴロと益々荒れ狂う。そして、ピカッと光った稲妻が一瞬辺りを明るく照らし、それと同時に建物全体を揺さぶるかのような音を轟かせた。
それに驚いて身を固くした志乃は思わず千代の袖を縋るように掴む。その仕草はまるで幼子のようで、いつもの厳格な志乃とは様子が違うことに千代は目をぱちくりと瞬かせた。しかし、直ぐそんな母の手を握る。
「大丈夫ですよ、お母様。雨も雷もすぐに通り過ぎます」
「……千代……」
「それにしても……お父様の心配をなさっているのかと思えば」
千代がクスリと笑うと、志乃は恥ずかしそうに娘から視線を外した。
「だって……どうしてもあの音は苦手なのよ」
まさか、母の弱点が雷だったとは……。今目の前にいるのはいつもの厳格な母ではなく、一人のか弱い女だった。
「雷などこれまでにも、何度となく鳴っていたではありませんか。わたくし、一度もこのようなお母様の姿を見たことはありませんけれど?」
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