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千代がそう言うと、志乃はプイッとそっぽを向く。しかし、手はしっかりと千代の袖を握ぎったままだ。
「いつもは、正道様……旦那様がお傍にいらっしゃるから。わたくしの気が紛れるようにお話をしてくださるのです」
拗ねたようにそう言う志乃に、千代は驚きを隠せない。まさか母の口からこのような言葉が出てくるなどとは思ってもいなかったのだ。
「まぁ、娘の前で惚気ですか? お母様」
「その様なつもりは……。ただ、旦那様がお傍に居てくだされば平気だと言う話です」
「ですからそれを惚気だと申していますのに」
千代がそう言うと志乃はパッと頬を染めた。そんな母の様子に千代はクスクスと笑う。
「さて、どうしたものでしょうか……。わたくしでは、とてもお父様のようにうまくお話することなどは出来ませんし」
千代がそう言うと、志乃は顔をこわばらせたまま首を振る。
「いいえ。もう大丈夫です。この様な不甲斐ない姿を貴女にこれ以上見せるわけには……」
そう強がる志乃を嘲笑うかの様に、一瞬眩い光が空を照らしたかと思うと、ドンッという激しい音と共に地響きのような振動が家を揺らした。ずいぶんと大きな音だったので、もしかしたら近くに雷が落ちたのかもしれない。
志乃は堪らず千代の手をギュッと握り、そのまま胸に顔を埋めた。千代はそんな母を宥めるように、優しく抱きしめ背中を撫でる。
そして、志乃を安心させようと歌を口ずさみ始めた。千代の伸びやかな声が室内に響き渡る。その歌は、幼かった頃に千代をあやすために志乃がよく口ずさんでいたものだ。
千代の歌声に、志乃がゆっくりと顔をあげる。瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるが、その顔は多少落ち着きを取り戻していた。
そんな母の表情を見て取った千代はニッコリと笑うと、再び歌声を響かせる。
しばらく千代の歌を聞いていた志乃だったが、やがてゆっくりと娘の歌に合わせて歌いだした。
二人は声を合わせ、何度も何度も同じ歌を口ずさむ。
いつしか雨足は弱くなっていた。雷はまだ遠くで鳴り響いていたが、二人の耳にはもう届いてはいなかった。
二人が楽しげに歌を歌う中、突然屋敷の戸がガラリと開いた。志乃と千代は、突然のことに歌を止める。二人は驚き、慌てて立ち上がると玄関へ駆けた。
そこには、雨に打たれずぶ濡れになった太郎がいた。
「太郎、どうしたのです!? ずぶ濡れではありませんかっ!」
千代は驚いて太郎に駆け寄る。志乃も慌てて手拭いを取りに向かった。
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