真夜中だけ天使

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「真夜中の畑に、金色の翼を生やした天使がいるのを見たんだ……」  呟いた言葉の内容に、やはり説得力が無いな、と自己評価した。  自室中央で畳に寝転がり、ぶら下がる天井の蛍光灯を眺めながらの独り言だった。  外では蝉が鳴いている。真夏特有の大合唱。  つい先日、自室内に置いてある扇風機が壊れてしまった。なので現在は、暑さを凌ぐために濡らしたタオルを自分の胴体に被せて体温を下げている。子供ながらに試行錯誤を繰り返して、最も簡便かつ効率的な方法を模索した結果がこれだった。  幸い、今日は昼間でも風があるため、部屋の窓を全て開け放っておくことで、その風が通り抜け、熱をさらってくれる。真昼にも関わらず、この程度で済んでいるのはそのためである。  さて、そんなことよりも、と思考の軌道修正を行う。  天使のことだ。  昨晩からずっと考えている。  目撃したのは、ほんの数時間前。  熱さで寝苦しくて目が覚めた、昨夜の丁度、真夜中。  寝惚けた頭と身体でふらりと立った自室の窓からぼんやりと外を眺めていると、遠くの畑に不思議なものを見つけた。  初めに認識した色は、金色だった。  次いで、白。  その後は、緑。  そしてようやく、肌色と黒。  どういうことかと言えば。  鳥のように左右へ展開した金色の翼に、真っ先に意識が惹かれ。  その翼が生えていると思しき胴体、その白さが、おそらくワンピースのような服の白さだと理解し。  その者、だと思うが、とにかく、その者の足元から、一斉に緑の蔓が伸びていた。まるで引き上げられているかのように、その者が成長を速めているかのように、僕には見えた。  伸び上がるその蔓を、優しく、軽く、愛おしそうに撫でる両手。その手が肌色だと分かり、そしてようやく、その者と思しき誰かの頭部、そこから伸びる髪が長い黒色だと認識するに至った。  不思議な時間だったし、不思議な光景だった。  目撃した時間もそうだし、これまでの人生において体験したことのない出来事であったため、とても神秘的だと感じた。  世の中には、このようなものがあるのだな、と発想した。  驚き、という意味であり、感動、という感情でもあったと思う。  今にして振り返ってみれば、動揺もしていたのかもしれない。  それほどには衝撃で、見慣れない現象で、理屈に沿った説明を付けられそうにない摩訶不思議であった。  夢ではなかったように思う。  これまでの人生において、僕は自分が眠っている時に視た夢は全て覚えている。これは裏を返せば、自分が夢を見たのか、それとも眠っている途中で起き出して、その間に見聞きしたものかどうか、自分の行動の是非を完璧に判別できている、ということ。他人には自慢できない、しようもない僕の特技なのだ。  しかし、それ故に、昨晩の出来事が夢ではなかったと断言できるわけで、真面目に考察しうるだけの価値がある、と断じられるのである。  加えて、僕は目が良い。学校の同級生の誰よりも視力数値が高い。だから、あれほどの距離があっても、誰が立っていて、何をしているのか、その全てがよく見えた。挙動まではっきりと。見間違いの可能性は無いと断言できる。  さて、どうしたものかと、ここで再び悩む。  出来事の信憑性に対しての疑念が皆無であるならば、何を悩むことがあるのかという自問に対して、ことの科学的説明ができるのかどうか、という点を保留にし、次いで想起する逡巡とは、僕の幼馴染に、この話を打ち明けようか、やめておこうか、というもの。  話に食いついてくれるなら良い。今夜にでも、こっそりと家を抜け出して確かめてみよう、という流れになるなら最高だ。願ってもない。  反対に、望まない展開は一つ。馬鹿にされることだ。  怖がりだとか、どうせ夢を見たんだとか、男のくせに夢の内容を引き摺っていて情けないとか、そういうことを言われるのが嫌だ。夏休みが終わった後の学校で言いふらされるのも御免被りたい。でも、あの子のことだから言いそうである。だから逡巡している。差し障りのない楽しいだけの話題ならともかく、僕個人の評価に響きそうな内容の場合は気軽に話せない。誰に何を言い出すか、どういうつもりで行動しているのかが予測し難い子なのである。  考えていると、音が聞こえた。  玄関のチャイム音である。  つまり、幼馴染がやって来た、という知らせ。  前日に遊ぶ約束していたとはいえ、タイミングの良さに苦笑いしてしまう。  僕は寝転がっていた畳から跳ね起きて、濡れたタオルをその辺へ放り投げ、Tシャツを着る。  自室のある二階から階段を降りて玄関へ向かう。その間に、またチャイムが鳴った。  玄関扉を開けると、訪問者はやはり幼馴染であった。  長くて軽い黒の長髪。夏の日差しを反射して影響を受けないのかと疑ってしまうほどの白い肌。オレンジ色のタンクトップに、緑色の短パンという恰好。プラスティック製のビーズが散りばめられた、派手なデザインのサンダルを履いている。これが彼女の容姿であり、特徴である。ようするに独特で、とても目立つ。 「見て見て! 来る途中にカブトムシ捕まえたの」  言いながら、彼女は満面の笑顔で、僕にカブトムシを差し出して見せた。 「うわ、すごいね」  僕は驚きつつ、彼女が器用に片手で持つそれを観察する。  大きなカブトムシだ。色は赤茶色。つまり、好戦的で生存に自信のある個体だと判る。 「来る途中に見つけた、って言ったけど、どこにいたの?」  彼女をキッチンへと誘導しつつ、僕は聞く。 「飛んできたの。私めがけて」  サンダルを脱ぎ、僕のすぐ後ろをついて来ながら幼馴染は答える。 「すごい偶然だね、それ」 「う~ん、そうでもない。よくあるの、こういうこと」 「へえ、羨ましいな。例えば、登校中に飛んできたのを捕まえれば、学校でヒーローになれるじゃん」  彼女をキッチンの椅子に座らせた後、僕は冷蔵庫から冷えた麦茶の魔法瓶を取り出して、グラスに二人分注ぐ。 「その頃には、カブトムシはいなくなってるよ。夏が終わってるから」 「あっ、そうか」  僕は幼馴染の指摘に納得し、彼女は笑いながら、お互い麦茶を飲む。カブトムシはキッチンのテーブル上に置かれ、一時の自由を与えられている。  そこから、他愛ない話をして、夏休みの宿題の残りの話をして、目の前で動くカブトムシを二人でつついて遊んだ後。  僕は思い切って、話してみることに決めた。 「あのさ、実は昨日の夜、自分の部屋の窓から、天使を見たんだ」 「天使? なにそれ、どういうこと?」  予想通り、彼女は鼻で笑った後、自分のグラスにおかわりの麦茶を注ぎ始める。 「夜中、寝苦しくて起きて、窓の外を眺めてるとさ。遠くの畑に、金色の羽根を生やして、真っ白い服を着た、長い黒髪の天使みたいな人が立ってるのを見つけたんだよ。そうそう、丁度、お前の家の近くの、ほら、畑にビニルハウスが設置されてるところあるだろ? あの辺りに立って、地面に向かって、こう、手をひらひらさせるとさ、植物が伸びて、踊るみたいに揺れるんだよ。不思議だろ?」  そこまで話すと。  幼馴染の動きが静止した。  麦茶を注ぐ手を止めて。  上目遣いで、僕をじっと見つめてくる。  でも、それはすぐに解消されて。  自分のグラスに続き、僕のグラスにも麦茶を注いでくれた後。 「ふうん」  と一言、それだけを述べた。  彼女が麦茶を飲む。  それに合わせて、僕もグラスを手に取る。  キッチンには沈黙ばかり。  カブトムシは、卓上に置かれていたバナナのひと房に張り付いて大人しい。  気まずさはなかった。  空気は重くない。  幕間、という表現が相応しい気がする。  考えている。  そんな気がした。  誰がと言えば、彼女が。  何を、と探れば、僕が発した言葉の内容について。  次に彼女は、何を言い出すだろう?  こればかりは、分からない。  物心ついた頃からの付き合いだけど、未だに補足できない。  定まらない性格なのだ、この子は。  常識に当てはまらない節もある。  だから面白い、ということでもある。  とにかく自由なのだ。  発想も、思考も、振る舞いに至るまで。  彼女が動く。  グラスを卓上に置いて、その手をゆっくりと引っ込めて。  滑らかに瞼と視線を動かして、僕を見た。  その一連の動作が、どことなく大人っぽくて。  僕は思わず、どきっとしてしまった。  意外な一面を視た、と思った。  もしくは、成長だろうか?  この子も日々、大人に近づいている、ということか。 「天使、っていう発想は、面白いね」  彼女は明るい声で言った。 「そう見えたからね」  僕は答える。 「天使の正体、気になる?」  彼女が聞く。 「当たり前だろう? 朝起きてから、ずっと考えているくらいだよ」  僕は応える。 「じゃあ、今夜こっそり家を抜け出して、一緒に見に行ってみる?」 「えっ?」  彼女からの提案に、僕は固まる。  驚いた。  こういう提案がなされることが理想だとは考えていたけれど、まさか本当に言い出すとは思わなかった。しかも彼女の方から、これほどにさらりと、そしてあっさりと。 「どうする?」  彼女が選択を求める。  片方だけ口角を上げて。  可笑しそうな口調で。  どことなく挑発的な視線と共に。 「いいね、行こう。正体を暴いてやろう」  僕がそう告げるのと同時に、ここまで大人しかったカブトムシが急に飛び立ったため、二人揃って声を上げた。  時刻は午後23時30分。  自室の部屋を消灯して、さも普段通り寝付いたかのように見せかけて、僕は彼女との待ち合わせ時間になるまで、懐中電灯の明かりを頼りに、漫画を読んだり、静かに窓を開けて外の様子を観察したりして過ごした。  ここまでは順調。彼女が残していったカブトムシの存在を忘れていて、夕食時に再び飛翔して登場したことでお母さんが悲鳴を上げ、そして僕が叱られるというアクシデントがあったけれど、それくらいのもの。物証など残りようがないため、僕達の企みは大人達には露見していない。  時計を確認。  23時45分。  そろそろ頃合いだ。  僕は忍び足で自室を出て、階段を降り、静かに一階のトイレへ入る。  トイレには窓があり、そこから外へと出ることができる。こうでもしないと夜間外出は叶わない。馬鹿正直に母に頼んでも夜中に出歩くなど許されるはずもない。となれば見つからないよう抜け出すしかないのだが、玄関は古いタイプであるため、開閉時に軋むような音がする。これは当然、夜の家内に喧しく響く。たちまちに見つかって、また叱られてしまうだろう。  それを回避するため、僕は事前に外出のための準備をした。具体的には、外出経路の選定と確認、トイレの窓から出てすぐの足元に、忍び足が可能なタイプの薄くて歩きやすいサンダルを隠し置くこと。  音も無く外へと着地した僕は予定通り、隠していたサンダルを履き、静かに、けれど急ぎ足で、待ち合わせ場所であるビニルハウスへと向かう。  外は涼しい。  風もある。  照りつける太陽が無いだけで、これほどに違うのだな、という感想を抱く。  方々から鈴虫が鳴いている。草木と田んぼと畑ばかりの田舎であるため、文字通りどこにでもいられるのだろう。  ビニルハウスが眼前に迫る。  他人の敷地内へと踏み込む。  田舎で、しかも子供であるため、許されている行いだ。  畑の土を踏む感触。作物の芽などを踏まないようにだけ注意。 「ちゃんと来たね。偉いじゃん」  かけられた声に少しだけ驚いてから顔を向けると、ビニルハウスのすぐ側に置かれた大きなコンテナ、その陰に幼馴染が座っていた。 「ごめん、待った?」僕は聞く。 「全然」  彼女は答えながら、自分のお尻辺りを片手で払う。  その動作を眺めて、そして気づいた。  彼女は、白いワンピースを着ていた。  初めて見る格好だった。  この子がパンツスタイル以外の何かを履いている姿は、これまで目にしたことがなかった。  冬だろうが、雪が積もろうが、半パンや、ハーフパンツで学校に登校してきて、男子に混ざって雪合戦をするような子なのである。  そんな彼女が、真っ白なワンピースを着ている。  女子らしい恰好をしている。  その事実に、そのギャップに。  僕は再び、どきっとしてしまった。 「スカートなの、珍しいね」  自分の胸の内の動揺を誤魔化そうと、僕は小声で彼女に話しかける。 「ワンピースっていうのよ」  彼女も小声で応える。その表情は笑顔。からかってきているのだ。 「それは知ってるよ」  僕は言い返す。 「これね、寝巻なの」  話しながら、彼女が歩き出す。 「ああ、だから、普段は見なかったのか」  彼女の後をついて歩きながら僕は言う。 「普段から見たい?」 「えっ?」 「中に入って、ほら、早く」  どこへ行くのかと思えば、彼女はビニルハウス内へと僕を招く。  つい今しがたの質問の謎について聞きたかったのだけど。  その疑問が吹き飛ぶような現象が。  すぐに始まった。  ビニルハウスの中央を歩く彼女。  その彼女の周囲を。  金色が取り巻き始める。  色の粒子とでも言えば適当か。  細かなそれが、彼女の背辺りに纏わり付いて。  そのタイミングで、彼女がこちらを向いた。  笑っている。  自分の口元に、人差し指を立てながら。  ああ、そういうことだったのか。  判明した。  天使の正体が。  僕は、なんて鈍感なのだろう。  視力は良いくせに、観察眼が不足している。  遠くに立っていたとはいえ、そのシルエットが幼馴染のものだと気づけなかったなんて。  ビニルハウスの中央辺りまで歩き進んだ頃。  彼女が両手を軽く上げた。  すると、地面から緑の蔓達が伸び上がってくる。  土の匂いが強くなった。  気持ち、湿度も増えたような気がする。  金色の翼を纏い、緑を操るかのような彼女。  夜の黒と、明るい金と、映える白。それらを讃える緑。情景の対比が美しい。  黄金の燐片が気づかせてくれた夜景。  明緑は違いなく生命廻樹の蔓と枝。  人知を超えた技かと驚く。  ついには、神からの賜り物かと。  彼女は満面の笑みで、僕を見ている。  僕も笑顔を返しつつ、小さな拍手を送った。  感謝と、感動が、同時に在った。  これを見せてくれたこと。  これを僕にだけ教えてくれたこと。  美しい彼女の姿に魅せられたことに対しての賞賛だった。  あの夜から、二十年が経った。 「あれから二十年っていうのも驚きだけど、まさか、こういう仕組みだったとはなぁ」  真夜中に天使を視たと思い込んでいた翌日の朝。  自室で現象と疑問を呟いたあの時間が、時を経て、僕の頭の中にフラッシュバックする。  そうだ、あの時も僕は、独り言を呟いていたっけ。  もしかして、成長していないのだろうか?  三十にもなって、それは困る。  学会発表の席についた状態で、内側の自分と問答をしていると、発表の内容が移行した。  壇上で説明していた人が交代する。  次いで、マイクが置かれた台の奥に立つ、見知った姿が。 「では、検証の結果と、その具体的な手法について、私から解説をさせていただきます。まずは……」  僕の幼馴染であり。  僕の妻である彼女が。  あの夜の現象、その再現実験の結果を発表する。  あの夜、僕はあの現象を、魔法か、神の御業か、彼女が本当に天使に愛されたが故の超能力かと想像した。  けれど実際には、科学的に説明可能な連鎖反応、意図して再現ができる、人類の小道具と調整した環境、夏の気温という相互作用に起因する疑似自然現象であった。  具体的には、温暖な外部の影響下において、さらに限定された空間、つまりビニルハウスという環境条件内で生じた黄色反応と燐散浮遊状態が、彼女の背に生えているように映った金色の翼の正体で、急速に成長して伸び上がっていた緑の植物達は、太陽が沈み、光合成が中断されていたことで、土中のリン酸濃度が過密かつ窒素が活発的に巡り、あのような現象が起きていたのだ。  まったく、驚きである。  これを科学的な理屈に沿って解明し、再現実験を繰り返し、他者達に披露した上で、仕組みを解説し、納得してもらうのには時間がかかった。博士号を取るのだって大変だったし、この実験や検証に合意してくれる実験室を見つけるのもひどく骨が折れた。  でも、それだけの価値があった。  騒然とする学会場内と、彼女への沢山の質問が、その証左。  押し寄せる疑問と疑念の波にも怖じることなく、彼女は涼しい顔で答えている。あの状態の彼女は無敵だ。僕が言うのだから間違いない。  彼女は本当に楽しそうに。  天使のような美しい笑みで。  質問に答え、説明をする。  科学が魅せる奇跡と。  あの夜の軌跡を。
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