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記憶を辿る
記憶は常におぼろげだ。
けれど僕のなかに、ずっと残っている景色がある。
黄昏時。
まるで異界へ続く道標であるかのように、青と緋色の混ざった神秘的な夕焼け空が広がっていた。
山の向こうへ沈んでしまった夕陽を惜しんで、川岸に群生する彼岸花が揺れている。沈みゆく夜の気配に染まることなく、むしろ自身を引き立てる脇役のように闇を侍らせる赤い彼岸花。水面にさえその色を滲ませて、じわりじわりと夜を侵蝕していくかのようだ。
小川を挟んで咲き乱れる彼岸花はまるで写し絵のようでもあり、長くこの場に留まっていると自分がどちら側にいるのか一瞬わからなくなってしまう。
川を渡ってしまえば、もう二度とこちら側へは戻って来られない。そんな風に少しの恐怖心を芽生えさせてしまうほど、落日に濡れた彼岸花は美しさの裏側に遅効性の毒を孕んでいる。
***
山間の小さな村だった場所だ。過疎化が進んで廃村となったこの場所は、辺鄙な山奥であるにもかかわらず、今や多くの観光客で賑わっている。その理由はこの場所が秋の行楽スポットとして雑誌やテレビに取り上げられたからだ。
山から流れる清らかな小川と、その両岸に咲く赤い彼岸花の群生地。青空にも夕焼けにも映える圧巻の景色を一目見ようと、秋のこの時期は毎年多くの人で賑わっている。
今年は僕もそのひとりだ。何気なくつけたテレビに映ったこの風景を見た瞬間、僕はなぜだかわからないが、ここへ行かなければと強くそう思った。戻らなければ、と言ったほうが正しいかもしれない。
僕の胸を強烈に締め付けるのは、おそらく郷愁の念だと思う。こんな山間の田舎に何の縁もないはずなのに、朽ちて原形を留めない家の残骸や、崩れ落ちた木の橋を見るたびに、覚えのない記憶が薄い靄のままで脳裏を淡く掠めてゆく。
写真を撮ることに夢中の観光客を何人も追い越して、心が騒ぐ方へただひたすら歩いていく。足場は次第に悪くなり、やがて僕の目の前には行く手を塞ぐ大きな藪が生い茂っていた。小川の上流はその先のようで、藪の向こうを覗き見れば赤い道標がなおも奥へと続いている。辺りにはもう観光客の姿もなく、鳥のさえずりや小川のせせらぎといった自然の音だけが静かに秋の空気を揺らしていた。
枯れかかった木の枝が腕を傷付けることも厭わずに、僕は藪を掻き分けて奥へと進んでみた。確信があったわけではなく、それは曖昧な予感でしかなかった。けれど僕の脆い記憶を裏付けるように、それは姿を現した。
小川を彩るように咲き誇る彼岸花の赤。その中に一輪だけ、白い彼岸花が咲いている。
ざぁっと風が吹き荒び、さざめき合う木立を見上げた瞬間――辺りは突如として光を失い、忍び寄る夕闇に包まれていた。さっきまで晴れていた青空は橙と緋色を滲ませて、山向こうへ沈みゆく赤い夕陽と共に逢魔が時を連れてくる。
記憶の奥底に眠る、あの景色と同じだ。
僕の中に曖昧な形のままこびり付いていた記憶の断片が、舞い上がる風に手を取られ一気に浮上する。
――あぁ……と、声を漏らした。
知っている。
覚えている。
この木立の奥に、大きな屋敷があったことを。その屋敷に美しい少女が住んでいたことを。
彼女の艶やかな黒髪も、儚げな微笑みも、触れ合った指先の熱までもが鮮明によみがえる。白い頬をほんのりと染めて笑う彼女の声が、耳元で僕の名を呼んだような気がした。
けれども僕は……あぁ、そうだ。僕は彼女の名を呼ぶことすら許されない身だったのだ。
あの時代、僕らを隔てる壁はあまりに大きく、大人になりきれていない僕の力では彼女を屋敷から連れ出すことも、ましてや共に生きることもできるはずがなかった。屋敷の奉公人だった僕が唯一できたことといえば、人目を忍んで束の間の逢瀬を交わすことくらいだ。僕たちは人気のない蔵の中で、あるいは屋敷の裏口に隠れて、わずかに手を握るだけの時間を大事に重ね合ってきた。
そのなかで彼女のお気に入りは、彼岸花の咲き乱れるあの川岸だった。二人で背を丸めて座り込めば、赤い花が僕たちの姿を隠してくれる。僕らにとって大切な花を死人花と呼んであまり近付かない村人のおかげで、彼岸花の咲く時期だけはいつもよりも長く彼女の手を握っていられた。
お嬢様――と、以前のように呼んでみる。
胸の奥がギシリと軋んで、息をするのが難しかった。
痛みに耐えるように目を瞑れば、漆黒に塗り潰されるはずの眼裏がなぜか真っ白に染め上げられた。その色を雪だと認識した途端、僕の体から一気に熱が奪われてゆく。
あれは数年に一度と言われるほどの大雪が降った日のことだった。彼女は原因不明の病に罹り、床に臥してしまった。三日三晩高熱が続き、かろうじて保たれていた意識は明瞭さを欠き、目を開いていても焦点を合わせることが難しいようだった。
僕は主の命を受け、二つ隣の町に住む高名な医者を訪ねて村を発ったところまで覚えている。その先の記憶は鋭利な刃物で切り裂かれたみたいにぷっつりと途切れていて、まるで沼の中へ沈み込んでしまったかのように闇ばかりが広がっていた。それまで思い出してきた記憶すら失ってしまいそうで、心はただただ焦燥し、僕は闇雲に両腕を振り回した。
その指先が、何かに触れる。
掴み寄せたものは、色褪せてぼろぼろになった袋だ。中には医者が調合したと思われる古びた薬包が入っていた。
ごうっと、今度は一層強く風が吹いた。見開いた視界に映るのは、前も後ろも何も見えない真っ白な世界だ。肌を容赦なく打ち付ける北風に降ったばかりの雪が舞い上がり、ただでさえ視界の悪い行く手を完全に白く覆い隠してゆく。
寒い。痛い。動け。
眠い。進め。寒い。
動け。眠るな。
進め。進め。
何が何でも屋敷へ戻れ。この薬を届けるんだ。
諦めるな。手足の感覚がなくとも、足が動かずとも、這ってでも戻れ。戻るんだ。
戻れ――!
風が啼く。
雪が嗤う。
体は重く、僕の記憶もゆっくりと冷たい闇の底へと沈んでゆく。
『――』
遠く、名を呼ばれた気がして目を覚ました。
辺りは相変わらず真っ白で、僕は温度のない雪の中にひとりきりで佇んでいた。さっきまでの命を弄ぶような吹雪は消え失せ、郷愁に浸っていた廃村の跡もない。
ただ――目の前に、一輪の赤い彼岸花が咲いていた。
『――』
また、声が聞こえた。さっきよりもはっきりと。
さくりと、紙吹雪みたいな雪を踏んで一歩進む。と同時に、雪の上に咲いていた彼岸花が徐々にその色を白く変化させていくのが見えた。
赤い色が白に近付くたびに、辺りの雪も薄れていく。まるで彼岸花が雪を吸い取って、白く染まっているかのようだ。やがて完全に雪が消えたその場所には、僕が彼女と同じ時間を過ごしていたあの村が姿を現していた。
ようやく。
あぁ……やっと、帰り着いたのだ。
そう思うと、目の奥がじんと熱く滲んだ。
村を流れる小川の両岸には、さっきと変わらず鮮やかな赤い彼岸花が咲いている。その中にたった一輪、白くたおやかに咲く――それはぼんやりと形を崩して、白い着物の懐かしい面影に揺らめいた。
「――お嬢、様」
堪らず駆け寄った僕は、もう薄れて消えかけている彼女の手を引いて、そして……はじめてその体を両腕にきつく抱きしめた。腕の中の彼女は少しだけ驚いたようでもあって、けれどそっと僕の胸に頬をすり寄せてきた。
『おかえりなさい』
ただいま戻りました。そう呟いた僕の声は恥ずかしいくらい涙に震えていて。
けれど彼女があまりにもやさしく涙を拭ってくれるから、僕は幼い子供のように嗚咽を漏らして泣くのをとめられなかった。
どれだけ時が流れようと、この地で、この彼岸花の咲く川岸で、ずっと僕を待っていてくれた愛しいひと。彼女を救うはずの薬は間に合わず、吹雪に沈んだ僕の記憶は長いあいだ帰る場所を見失い、新しい生を受けてもなお心の奥底でさまよい続けていた。
だからこの場所の彼岸花を見た時、心はあれほどまでに『帰れ』と僕を急き立てたのだ。
「遅くなってしまい、申し訳ございません」
掴んだ手に、彼女の感触はもうかけらもない。絡めた指先からはらはらとこぼれ、崩れて、ほどけてゆく。最後のひとかけらが淡く弾けて溶けるまで、彼女は生前と同じ美しい微笑みを絶やすことはなかった。
寂寞に包まれた廃村に揺れる、色鮮やかな彼岸花。
解き放たれた記憶と彼女の魂を見送って、ただただ静かに、やさしく揺れている。
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