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追記(一人称の難しさと三人称の難しさ)
この考察にコメントを頂いた。正直なところコメントを頂けるほど自分の考えを整理できていると思っていないので驚きと嬉しさがあった。
さて、頂いたコメントからインスピレーションがあった。簡単に言うと、同じレベルの技量の一人称小説と三人称小説では、一人称小説では評価されないと思っている。逆に言えば三人称小説は平均点が低いと、私は思っていると気がついた。
まず、一人称小説で求められる技術と三人称小説で求められる技術では、質が違うと思っている。それ故に求められる技量のレベルが違うと思っている。例えるなら、理科の点数で合否を決める時に生物で受験した者と物理で受験した者の中から選ぶ事に近いと思っている。センター試験(共通一次)で科目間の点数調整が話題になるが、それの事である。
本題に入りたいのだが確認したい事がある。世代によって違う恐れがあるからだ。作文の書き方はどの様に教わっただろうか?
私の記憶の範囲では、『起承転結』で作文を書きましょう。起とは・・・、承とは・・・、転とは・・・、結とは・・・。と教わってから、運動会について五時間目と六時間目を使って提出して下さい。と言う感じだった。
『運動会、いやだった』 おわり。
私の場合は『起承転結』以前の問題であった。運動会について書きたい事など欠片もない。厭なものは厭としか言いようがなかった。といってこれが作文として受理されない事ぐらい分かる子供だった。
何故、作文が書けなかったかと言えば、感情の言語化が出来なかったからだ。そして先生も感情の言語化について教えていなかったからだ。作文を書く上で重要なのは『私はこう思った』の部分だと思う。しかし、『私はこう思った』を文章化できる人間は少なく、教える事が出来る人は更に少ないと思う。
『私はこう思った』を先生が教えない理由の一つは『教えるまでもなく、出来ている』と思っているからではないか。毎日のように『算数きらい』『マロン&マロン大好き』などと感情の言語化は誰でも行っているからだ。でも作文に書くのは『算数のどこがどのように嫌いかを起承転結で書き表す』事で、日常会話の表現力とは違うものなのである。それなのに、作文らしいものを原稿用紙に書き記しさせ、先生は採点するのである。
この作文で重要な『私が思った事、遣った事』を書く事。これは『私事の話』で、主人公が私の一人称小説と同じなのである。
つまり、作文は一人称小説なのである。
一人称小説は作文で慣れ親しんだ『私が思った事、遣った事』を書く表現方法なので読み手にとっても書き手にとっても国語と同じネイティブな表現方法なのである。それ故に一人称小説の出来栄えは平均点が高いと思っている。しかし、平均点が高いと一点の違いで合否が分かれる試験と同じ難しさがある。
まず、誤字脱字が目立つ。何故なら平均点が高いと減点方式で評価するからである。情景描写や心情描写も他の作品で目が肥えているので『この程度の表現レベル』と見られてしまう。と言って、奇を衒った表現をすると爆死するのがオチなのである。
作文で花丸を貰う人が集う中で一歩抜きに出る作品を書く難しさが、一人称小説の難しさだと思っている。
では、三人称小説の難しさは何か? ずばり、ネイティブではない表現方法を使う事である。先ほどの理科の例えで言うならば、生物は小学の理科で朝顔の生長やカエルの変態、光合成によるでんぷん合成を学び、中学ではフナの解剖や枝豆で遺伝子を学ぶ。学習期間の長さと身近な教材で体感的に理解できる。それに対して物理は光や音なの体感的なものは小学で学ぶが目に見えない電気や磁力、運動法則など体感で理解できない分野になると成績が二極化していく。この時の教師と生徒の関係が三人称小説の作者と読者に似ていると思う。いちお補足するが教え方が下手な教師の下では生徒は理解できない構図も三人称小説に似ていると思う。
小説において主人公が困難を乗り越え成長していく心理描写は不可欠だと思うが『怒り』をどの様に表現するか?
相手の行った不正義が周りの人を傷つけ・・・、相手はその行動を改める事もせず何度も・・・、とか主人公が過去の出来事を思い出しながら怒る様は三人称では書けないのである。その代わり、相手を凝視したまま微動だにせず・・・、主人公の周りから音が消えていった・・・、とか外から観察して分かる事は書けるようになる。
しかし、怒りの大きさが表現できていて尚且つ読者がそれを齟齬なく受け取れるかは分からない。何故なら、四字熟語や諺の様に確立した表現方法ではないので齟齬が生じる可能性が大きいのである。
この身近ではない三人称小説の表現方法は前ページで考察した通り一人称小説にない自由さがあるが、作者と読者の間の阿吽の呼吸が確立するには時間を要すると思っている。
と、色々と書き連ねたが、
読者は、これは一人称小説とか三人称小説とかを意識して読んでいない。誰が何を思って何を言っているのか。これが分かれば良いのである。一人称や三人称の形に優等生的に拘るより、映像を小説にしたような一人称であり三人称小説でも良いのである。読者が読み進める上で混乱が起きなければ良いのである。
あえて言おう。『小説における絶対的正義は、読者に次のページを捲りたいと思わせる魅力があるか』
これだけである。
了
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