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世界が消えてなくなるまで
大空をたゆたう雲が、水平線に沈みゆく陽に照らされてオレンジ色に輝く。
その更に上から、コバルトブルーのカーテンがゆるやかに降りてくる。
ザザァ……ザザァ──寄せては返す波際で、彼、誠とふたりきりの時。今日のドライブはここが終着点、もう少しこのままでいたい。
なのに…
「明美」
彼の澄んだ声が、ひとときの静寂を割いた。
「ん…?」
もう帰るの?
潮風になびくスカートを押さえながら、隣の誠を横目で見た。
彼は照り返す沖の眩しさに目を細めて、遥か彼方へじっと視線を投げかけている。
口角が少し、上がってる。私はこんな時の、彼の穏やかな横顔が好き。
「一緒に暮らそう」
油断していた。
彼は波の引く合い間を縫って、この一言だけをこぼした。
ザザァ……ザザァ……このリズムで繰りだす波音にかき消されないように。
海原を見つめたまま、さりげないふうを装って、実はタイミングを計っていたのだ。私が聞こえてないフリできないように。
気付けばパンプスの靴底が砂でズシリと重く、もう私は逃げられないと悟った。上辺の付き合いを脱して、直に向き合うのはとても勇気のいることだけど。
一度空を仰いでスンと鼻から息を抜いた。
「私、すごく神経質で思い込みが激しくて、いつも要領悪いし、あと、ヘンに心配性だよ!」
波のリズムなどお構いなしにまくし立ててしまった。
目前の彼はやはり目をぱちくりとして、私の真意をより明らかにした次の言葉を待っている。
「分かるでしょ、一緒に暮らすには私、すごく面倒な相手だって。誠とは性格が正反対で、生活習慣もいろいろ違っ…むぐっ」
胸の内側で吹きすさぶ不安をどうにか伝えようと、必死な物言いの最中に、彼は大きな手でこの口を塞いだ。
「俺じゃ頼りない?」
目尻が下がってる。彼の困り顔を至近距離で拝んだ私は、思わず首をぶんぶん横に振る。
このとき吹く風が一段、強まった。高鳴る鼓動の間隔を、ザザァ、ザブンと波音が刻んでゆく。
「わざわざ自分の面倒なトコなんて打ち明けなくてもいいのに、明美はホント真面目だな」
結局はこの呆れた声。彼はいつもこんなふうに顔をくしゃっとさせて苦笑いする。そして私の後ろ頭を片手でくしゃくしゃしながら、だいぶ高さがある肩にぐいっと引き寄せるのだ。
ほら、私は思いきり背伸びする羽目に。
「少し不器用でまっすぐな明美がいい。几帳面な明美にズボラな俺、慎重な明美に大胆な俺、心配性の明美に楽天家な俺。正反対だから補い合えるし、きっと楽しいよ。俺は…」
ふらつく私の腰に両腕を回して、彼は私を胸にすっぽり収めた。
「この大きな世界が消えてなくなる日まで、君と一緒に暮らしたい」
陽は沈み、トワイライトを浴びる星の砂のステージで、私たちは新しい日々へのステップを踏み出したのだった。
お揃いの鍵をぎゅっと握ってときめく夕暮れ。
マンションの下でばったり顔を合わせたら、重なる第一声「ただいま」。
この世界は絶え間なく続いていく。このままずっと──疑うスキもないほど私は幸せだったのに。
あの日を境にこの部屋の、時の流れは止まったままだ。
外の世界は刻一刻と色めいて、その様相を変えていくというのに、
あなたの声の「ただいま」を待ちわびて、私はいつまでも家から抜け出せない。
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