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後悔
病床の私がまた眠りについてしまったから、志穂と真由はベッド脇のソファに落ち着き、状況を話している。
憔悴した志穂が痛々しい。私の意識は自宅の玄関にいて、もう見えてはいないけど、声だけが明瞭に聴こえてくるものだから…。
「今日は翼の一次試験だったから、あの子を会場に送り届けたらすぐ羽田に向かったわ」
長男が大学受験で、長女が高校受験。彼女はちょうどそんな時期で、心身共に大忙しだった。
「大変だったね」
「真由さんごめんなさい。お母さんのこと任せっきりで…」
「志穂ちゃんには家庭があるんだから、それが第一よ。東京から北九州に来るのだって大変だもんね」
「私、こんなに早くこうなってしまうって思ってなくて。電話でも気付けなかった…」
志穂の震え声が私の心をぎゅっと鷲掴む。どうか自分を責めないでと、この手で肩を抱いてあげたい。
私が真由に、「志穂にはスキルス胃がんだって言わないで」と頼んだのだ。病気が発覚したのと同時にもう長くないと分かったけど、手術すれば問題ないがんだとごまかした。東京で仕事や育児に追われる彼女を煩わせたくなかったから。
“持って明け方だろう”という担当医師の見立てを、真由は志穂に告げた。志穂の嗚咽がより深く、陰鬱な病室に響く。
志穂に伝えたい。
私もそれなりに生きてきたから、人はそれぞれの生活に多くの事情を抱えていて、いつも周囲に気を配れることが当たり前だとは思っていない、と。
我が子が日々やりがいを感じて過ごしているなら、私は満足だ。
「ねえお母さん」
「なぁに、小さな志穂」
もう、病室の私が目覚めることはないだろう。
「お母さんは何をそんなに後悔しているの?」
「…………」
この子は、夫亡き後の私がずっと、この家に縛られていることを知っている。
「志穂はお父さんが亡くなった時のこと覚えてる?」
「うん…。私が高校三年で、大学の合格発表の日だったね」
雪のちらほら舞う、相当冷え込んだ日だった。
午前中、職場で志穂から本命合格のショートメールを受け取った。
私は張り詰めていた緊張の糸がほぐれ、机にバタッとうつぶせてしまった。誠にもすぐメールしたかったけど、業務中で忙しいだろうし、何より志穂から話すべきことかと、夜を楽しみにしていた。晩ご飯は早速お祝いムードを出してみよう、メニューはどうしようか、そんなふうに胸を弾ませて。
その夕方、帰りの駅構内でのこと。鞄からPHSの着メロが、雑踏の隙間を縫って耳に届く。見慣れないナンバー、聞き慣れない電話の声。
夫が業務中の事故で病院に搬送されたという緊急連絡だった。
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