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“ただいま”の意味
老いて、足腰の弱い今の私は、その場にはたりと膝をついた。ぐたりと項垂れたら涙が膝にぽろぽろ零れ落ちる。
「大丈夫」
そんな私を志穂は、小さな身体で、両腕を広げ、包むように抱きしめてくれたのだった。
「それなら答えはお母さんの中にある。お父さんだって分かってたよ。お互い必死に毎日を生きていたんだから、目を合わせる余裕はなくても、同じ方を向いて歩いてたよ」
私はその温かい声に誘われて、彼女の澱みない瞳を見つめた。
誠は淋しくなかった…?
隣に並んで、私たち家族の幸せのために、自然と歩幅を合わせて、同じ目標に向かって突き進んだ日々。
私が頑張れたのは、いつだって絆を感じて、安心していられたからだ。誠というパートナーがいてくれたおかげで。
彼も同じ気持ちでいてくれただろうか。
子どもが生まれて、その子が大きくなってからも、私たちは確かな愛情で結ばれていたって、信じていいのだろうか。
突然彼を喪って、何も確かめることができなくて、私の心は迷子になってしまったけれど…。
「私も今そうなの。仕事で面倒なことが続くと、旦那や子どものことテキトーになっちゃう!」
自嘲気味に志穂が笑った。誠の面影いっぱいの顔で私と目を合わせてくるから、慰めの言葉がすっと私の中に飛び込んできて、そのぬくもりがじんわり沁みてくる。
「自分も子どもを育てて、改めてお母さんはすごいって思った」
この言葉と同時に、私の肩を支える志穂が少しおねえさんの姿に様変わりして、私の目に映った。
「私が塾から帰るの11時とかだったのに、お母さんは必ず夜食を用意して、ダイニングで私の帰りを待っててくれたよね」
いつも食べ終わるまで付き合ってくれたと彼女は、嬉しそうに思い出語りする。私には覚えのないことまで。なんだか少しこそばゆい。
「小さい頃からずっとお母さんが待っててくれたから、“ただいま”って言うのが幸せだったんだよ」
確かに、たとえ出来事は覚えていなくても、その温かな感情は胸に深く刻まれている。
「私も、“ただいま”って聞こえてくる時がとても幸せだった……日常の挨拶なのにね。今思えば、なんて幸せな言葉」
この言葉尻でふぅとついた溜息は、先ほどのそれより温度が上がっていた。
「ねぇ、“ただいま”って“ただ今、帰りました”の略じゃない?」
ここでポンと手を打って、閃いたように志穂は言う。私は彼女から繰り出される続きの言葉を待った。
「外国語ではちゃんと“帰りました”の方を言うらしいの。なのに日本語は重要なそっちを略してるって、変じゃない?」
彼女が学校で教わった豆知識のようだ。
私はもうあの世に行くんだから、一つ賢くなっても仕方ないけどね。
そして彼女は、「私独自の見解なんだけど…」と人差し指で顎を突きながら前置きして、叫ぶ。
「私たちは“今の自分”を強く伝えたいんだ!」
「うん?」
「たった今、自分の存在を伝えるための“ただいま”。そこにどんな言葉を繋げてもいいでしょ!」
「え?」
「お母さんはずっと“ただいま”を聞く側だったけど、今からは、お母さんが言ってみて。ただ今、お母さんは何をする? どうしたい?」
どうしたいかなんて、私はもう、この世との別れの時が迫ってる。そんな私が今、いちばん伝えたいこと? 大好きな人に──
たった今……
ただいま、あなたに逢いにいきます。
お願い、私を待っていて──
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