(1)教授、ワガママを言う

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(1)教授、ワガママを言う

「あー、唐揚げが食いてえなぁ」 「……」 「夢屋の唐揚げが食いてえなぁ」 「……」 「夢屋の特盛唐揚げが食いてえなぁ」 「……」 沢山の学術書がびっしりと収められた本棚に囲まれた部屋。 その部屋の奥に、これまた大量の本が山積みになっている大きなデスクがある。 そこには大柄な中年男性が座っていた。 この部屋の主・神里達人(かみさとたつひと)【54】である。 格闘家のような外見だが、その職業は大学教授であり、この部屋は彼の研究室だった。 およそ50代とは思えないような立派な体躯を揺らして、神里は片肘をつく。 「おい、聞いてんのか? さっきから唐揚げが食いてえって言ってんだろ」 「え?」 あからさまに苛立った声で話しかけられて、青年は作業の手を止めた。 神里のデスクの手前にある席でパソコン作業をしていた彼は、少しばかり目を見開いてその方を見る。 「僕に言ってたんですか?」 「他に誰がいるってんだ」 「独り言だと思って聞き流してました」 「馬鹿野郎、腹を空かせて死にそうになってる人間の言葉だぞ。  無視してんじゃねえ」 「すみません」 感情の伴わない声で謝り、青年は軽く頭を下げる。 彼は、神里とは正反対の小柄で細身の外見だった。 眼鏡を掛けている為、真面目で大人しそうな印象を受ける。 そんな青年こと藤本眞(ふじもとまこと)【24】は神里の助手を務める人間だった。 「あー、腹減った。腹が減りすぎて力が出ねえ。  論文を書く気力も読む体力もすっからかんだ」 「大学教授ともあろう御方が情けないことを言わないで下さい」 「うるせえ、食うことは生きることの基本だぞ。  そこを満たさずして何が出来るってんだ」 立派な出で立ちとは裏腹に、神里は子供じみた態度で喚く。 空腹で苛々しているのだろう。 藤本は呆れたように肩を竦めた。 「分かりました。じゃあ、少し早いですが先生はお昼に行ってきて下さい。  研究室は僕が預かっておきますから」 「それがなあ、今日はやってねえんだよ」 「夢屋ですか?」 「ああ」 夢屋とは、神里が行きつけにしてる定食屋である。 個人経営の小さな店だが、味は絶品で値段もリーズナブルと評判の店だ。 加えて、特筆するべきはそのボリュームである。 並・大盛・特盛から選べるのだが、特盛ともなると、ガテン系の仕事に従事している男性を満足させるほどの量なのだ。 そんな定食屋『夢屋』だが、今日は営業してないらしい。 「珍しいですね。平日はもちろん、土曜日だって営業してるお店なのに。  何かあったんですか?」 「ああ。あそこの店主が贔屓にしてる野球チームが酷い連敗続きでな。  落ち込んじまって仕事にならねえらしい。今日は朝からやけ酒だとよ」 「そんな理由で?」 「まあ、その気持ちは分からんでもないが。  お陰で俺が昼飯にありつけないときたもんだから、困った話だ」 「他のお店に行けばいいじゃないですか」 「俺の腹を満たす量を出せるのはあの店だけなんだよ」 「はあ……」 「しかも、今日の俺は昼飯に唐揚げ定食を食うと決めていた。  食えないと思うと余計に食いたくなるこの心。さあ、どうしたものか」 腕を組み、目を閉じて真剣に考える。 そしてすぐに神里はパッと目を開いた。 「よし、決めたぞ」 「何ですか?」 「ここで作って食う」 「は?」 「聞こえなかったか? ここで唐揚げを作る。そして食うんだよ。  幸い、キッチンスペースには調理器具も揃ってるしな」 神里の言う通り、この研究室には小規模だがキッチンスペースが併設されている。 主にコーヒーを作ることに使われているのだが、偶に簡単な料理を作ることもあるのだ。 「そういうわけだ。藤本、今すぐ材料を買ってこい」 「え?」 「今は11時過ぎだから、12時ぐらいには戻れるだろう。  そこから作り始めて1時には食えるようにしろ」 「あの、もしかして作る作業も全部、僕にやらせようとしてません?」 「当然だ」 「えぇ……」 「何だ、不服そうだな」 「だって……」 何か抗議をしようとした藤本に向かって、神里はビシッと人差指を突き出す。 「おい、藤本。テメェの肩書きを言ってみろ」 「大学院生です」 「それもだが、もう一つあるだろう? 大事な肩書きが」 「えーと……コンビニのアルバイト店員」 「違えよ! 助手だろうが! 俺の!」 「あ、はい」 「つまり、俺はお前さんの上司ってわけだ。  そんな俺からの命令なんだから、黙って従うのが筋ってもんだろ」 「えぇ……」 「ほら、分かったらさっさと行ってこい。上官命令だぞ」 「いつからここは軍隊になったんですか」 「つべこべ言うな」 「はいはい」 ため息混じりに藤本は椅子から立ち上がった。 書きかけの論文を中断してパソコンをスリープモードにする。 (せっかく筆が乗ってたのになあ) 心の中でこぼしつつ、研究室を後にする。 神里達人という人は、こういう強引なところがあるのだ。 何かやりたいことを思いつくと、周りの声など一切聞かずに押し切ってしまう。 彼のワガママに振り回されるのは、藤本にとってもはや日常の一部と化していた。 (あれで大学教授が務まるんだから、世の中って不思議だよなあ) 神里は心理学部の教授だった。 専門が犯罪心理学であることから、警察から捜査協力を求められることがよくある。 実際、神里のアドバイスによって事件が早期に解決した事例は少なくない。 しかも、所属している大学が私立の名門と謳われる慶田大学なので、彼は世間的には高名な心理学者として扱われている。 (こっちにしてみれば、ただの理不尽おじさんなんだけど) そんなことを思いながら、藤本は大学の外に出た。
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