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タレとタレ
うなぎが食べたくなった。土用の丑の日ではないし、なんの記念日でもない。無駄遣いをしないでと怒られるかもしれないけれど、うな重をテイクアウトして帰った。案の定、家計のことを考えてと妻に言われたが、久しぶりのうなぎにうきうきとしているのは分かった。
タレをかけて山椒を乗せて、いただきますと手を合わせてから、お帰りなさいのキスをしていないことに気付いた。どうしようかとふたり眼を合わせたが、いつもしていることを急に止めてしまうのは、ちょっと恐かった。こういうところから、関係の綻びが生じるのではないかと。
中腰になり身を乗り出して、軽く口づけをする。そしてもう一度手を合わせて、うな重に箸を沈める。タレが染みこんだごはんから食すのは一緒で、次にうなぎをかじるのも同じだった。
雨の日や晴れの日よりも、今日のように、ちょっとぐずついた天気の方が好きだというのも、気が合った。だけど、そうした相性のことを考えて、結婚したというわけではない。結婚したかったから、結婚したのだ。
お惣菜のヒレカツにタルタルソースをかけるのと同時に、佳奈は残しておいたうな重のタレの封を切った。使うかどうか訊かれたので、タルタルソースの上にタレをかけた。それを見た佳奈は眉を顰めたが、それに構わず一口頬張った。タルタルの味しかしなかった。そのことを正直に彼女に伝えた。
「もったいないわよ。折角のうなぎのタレなのに」
「でも、ヒレカツはひとつしかないんだから……タルタルをかける前に渡してくれればいいのに」
「それはそうだけど……」
「食べてみなよ。タルタルの味ばかりするから」
残ったヒレカツを皿の上に乗せてあげると、食べさせてほしいと言われた。もうそういう歳じゃないと突っぱねようとしたが、そうしないと、僕たちを繋ぎあわせる、縫い目のようなものが傷ついてしまいそうな気がしたから、しぶしぶ佳奈の口の方へとタルタルとタレをかけたヒレカツを運んだ。
「うなぎのタレの味もするじゃない」
「そうかなあ。俺が味オンチなのか、佳奈の方が……」
「あなたは、味の濃いものばかり好きだから、オンチになったのよ」
「まあ、そうかもなあ。なんでも、マヨネーズやソースをかけてしまうし」
こういう、喧嘩になりそうでならないやりとりを、いままで何度も繰り返してきたけれど、一度も、怒りを激しくぶつけ合ったことはない。なにを言われても、どちらかが、なんやかんやで折れてしまうのだ。
近所のうなぎ屋さんが潰れてしまった。あの日食べたうな重には、もうありつけないわけだ。
だからというわけではないが、今日はなんとなく、ケーキを買って帰りたくなった。チーズケーキとチョコレートケーキが入った箱を差しだすと、佳奈は「甘いものが食べたかったの」と微笑んだ。そして、お帰りなさいのキスをした。いつもより、ちょっとだけ長いキスだった。
焼き魚を綺麗に食べることのできる佳奈は、骨を器用に取ることができず、身を余しすぎているのを「もったいない」と言って眉を顰めた。がんばって骨にひっついた身を食べたが、それでも、食べられるところを残してしまった。
佳奈に責められたことで、秋刀魚の生きていたころのことが想像されてしまい、罪悪感のようなものが沸々とわいてきた。ごちそうさまでしたという言葉が、すんなりと出てこなかった。
最初に指をさしたケーキを選ぶことになり、一斉に人さし指を突き立てたら、どちらも別のケーキを指し示した。チョコレートケーキがひとかけら欲しいみたいだったので、皿の隅に置こうとしたら、食べさせてよと言ってきた。もうこの歳なのだからと口にしようとしたが、一口分のチーズケーキが目の前へふらりと現れたので、素直に佳奈の言う通りにすることにした。
チョコとチーズだと、チョコの方が味は濃いねと呟いたら、佳奈はそれに同意してくれなかった。
「あなたはチョコレートケーキばかり食べているから、そう思うのよ」
「ケーキくらい、好きなものを食べてもいいだろ」
「でも、食べてみたらおいしいかもしれないじゃない。チョコだけだなんて、もったいないわよ」
しかしこういう言い合いが、本格的な口喧嘩に発展したことはないし、食べ終わるとすぐに、なんの滞りもなく寝支度を調えて布団に入り、ちょっとだけ他愛もない話をする。すると、うとうととしてきて、眠りに入っていく。
うなぎを食べたいという気持ちに抗えず、お弁当屋さんで見かけたうな重を買って帰ってもいいかと訊ねたら、ちょうど食べたいと思っていたのと言われた。電話を切るとすぐに、残りふたつしかなかったうな重を手に取った。何度も持ち上げたり軽く振ったりして、斜めに倒れてしまわないように慎重に袋に詰めた。もうすぐ雨が降ってもおかしくない。いつもより足早に夜道を縫っていく。
いただきますを合図に、お吸い物に口をつけようとしたところで、今日はお帰りなさいのキスをしていないことに気付いた。うなぎをよけてごはんに箸を沈めたところで、佳奈もそのことに気付いたらしい。中腰になり顔を突き出して、口づけを交わすと、もう一度、いただきますと手を合わせた。
タレはあらかじめ充分にかかっている。追いダレの袋はない。あのときのうな重よりおいしいかと訊くと、佳奈は、どっちもおいしいよと返事をした。ここにいない誰かへ配慮をしているような感じだった。
「専門のお店の方がおいしく感じたけどね」
「舌が肥えているわけでもないのに。高ければおいしいというわけではないのよ」
「もちろん、このうな重もおいしいさ」
「じゃあ、いいじゃない。どちらもおいしいで」
言われてみればそうだ。何気なく口にしたけれど、どっちもおいしいというのが、正しい答えのように思う。そしてその方が、誰も傷つけることはないし、食卓の幸せを破られることもない。
いつも通り寝支度を調えて、他愛もない話をしていると、なんだか佳奈のことが苦しいほど愛おしくなってきた。佳奈もそうした気持ちを汲み取ってくれて、いいよと手をぎゅっと握ってくれた。
ひとり眠りからさめた。小さく寝息を立てる佳奈を起こさないように、上体を持ち上げた。夜が明けていく気配がする。タルタルソースのかかったあじフライが食べたい。そんなことをぼんやりと思いながら、もう一度、ふとんにもぐりこんだ。
〈了〉
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