12 のろい

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 机に突っ伏して、だらん。と、身体を投げ出して、だらしない格好で考えていたけれど、もちろん、周りへの警戒を完全に解いていたわけではない。スレイヤーを目指す以上。常に身の回りにアンテナを張っておくのは当然だ。ただ、学校の中だったから、警戒のレベルは決して高かったわけではない。  だから、その気配に気づいたとき、すでに足音は聞こえていた。  それは、水の匂いがした。  嗅覚が感じ取っているわけではないから、匂いというのは、燈が感じているものを五感に喩えた比喩だ。肌が感じる水の感じとは少し違う。だから、匂い。水のエレメントが持つ匂い。  そして、その匂いは同じ水の匂いでも雫とは明らかに違う。霖とも違う。同じ匂いがする人は一人としていない。  その匂いを燈は知っていた。  がらり。と、音がする。  身体を起すと、スライドドアのところには見知った顔が立っていた。 「丸山さん」  あの日。茉優を追っていた男。燈よりも二つ学年が上のセミプロスレイヤー。その男がそこにいた。 「なんか。用っすか?」  その顔に表情らしきものがない。怒りや憎しみ、嫉妬のようなものは感じられない。これが、自分の恋路を邪魔する男への表情だろうか。  攻撃を警戒するより先に燈はそんなことを感じていた。 「……石田燈」  ぼそり。と、その唇が動いた。  低い声だ。まるで、何かひどく忌まわしいことを告げるような声。 「何だよ」  警戒心が高まる。この男は呪術師だ。その声色にも、意味がある。声に呪術を乗せるのは呪術師の常套手段だ。 「小林。茉優。は。俺。の。ものだ」  一音節ごと、ゆっくりと区切りながら、丸山はいった。がつん。と、空気を圧縮したものが投げつけられたような感覚。それはまた、あの水の匂いがする。  宣戦布告。だと、感じた。 「あの子はそうは思っていないけど?」  燈の周りの空気が揺らめく。陽炎のように。じり。と、床がなった。それは、地面を踏みしめた音ではない。焼けた鉄に水滴を落とした時のような、音。 「小林。茉優。に。近づく。な」  燈の威嚇にも怯まずに、丸山はまた、言った。言葉に乗せた呪術にそぐわない無表情のままだ。否。燈は丸山のような本格的な呪術師と対面するのは初めての経験だ。レベルの高い術者はそこに感情など挟まないのかもしれない。そんなことを考える程度には冷静だった。 「別に」  こんな状況に対する方がLINEメッセージを一晩中ひっきりなしに送られるよりもずっと楽だ。燈は思う。 「近づいているつもりはないんだけどな」  自嘲気味に笑って燈は言った。  好き好んで近づいているつもりはない。丸山が冷静に常識的に紳士的に対応してくれるというなら、口出しする気もない。茉優に迷惑をかけないなら、好きでいることは自由なのだ。自分だって、好きな人を無関係な奴に好きでいることを否定されたくはない。 「小林。茉優。は。……。の。ものだ。」  そんな燈の言葉の何が、彼の心のどの部分に働きかけたのかわからない。不意に何かが雨のように空から降りてきた。印象は黒い雨。けれど、目には見えない。それが肌に触れるとそこから黒い何かが身体の表面を覆っていくように感じられた。 「……っ」  痛みがあるわけではない。それは攻撃というようなものではない。だから、防ぐことはできない。けれど、ひどく不快だ。清浄に保っていたい心の大切な場所に汚水を流されたような不快感に燈は顔をしかめる。  これが呪い?  と、心の中で呟く。  さっきまで完成された体系の中にあった『呪い』は形を変え、今は間違いなく『悪意』と言われるものに変わっていると、燈は感じた。無感情に感じられた目の前の男に何か感情の揺らめきのようなものが仄見えた気がした。  それなのに、未だに、顔の表情は怖いくらいの無表情だ。  何か、違和感。  これほどの『悪意』を、投げつけながら一切の表情を消すなんてできるのだろうか? 「石田。燈。お前。は。し……」  突然、ぞ。っとするような冷気を感じて、燈は思わずいつもベルトの背中側に携帯している小型のナイフを抜いて、丸山の方に投げていた。ほとんど条件反射だ。投げてから、まずい。と思う。無意識に急所を狙ってしまった。当たったら、ただでは済まない。呪術を発動中の術師が避けることが可能なのか。 「まる……っ」  避けて。と、言おうとしたときだった。
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