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「ただいま」
この時の、部屋中に充満している濃密な静寂が、オレの声をやさしく包み込み、ゆっくりと空間に吸収していく感じがたまらなく好きだ。
ここは、オレ――内海 耀治しかいない、プライベートルーム。
結婚前の貯金で借りた1DKの狭い部屋。
仕事が終わった後、そして、妻と我が子が待つ、我が家に帰る前。
ここで一時間から二時間ほど休憩をして、仕事の疲れを少しでもとらなければ、オレは冷静な頭で妻の道江に向き合うことも、赤ん坊である和生の夜泣きにも対応することが出来なくなる。
「つかれた」
誰もいない空間で宙を舞う言葉には、煩わしいことから解放された仄かな安らぎがあった。
小型冷蔵庫から麦茶を取り出して、コンビニで買った総菜で軽く夕飯を済ませると、敷きっぱなしのせんべい布団で横になり、短い仮眠をとる。
道江にはあらかじめ、残業で遅くなることを伝えてあるので、オレのささやかな休憩に感づかれることはない。
いや、そもそも、息子の夜泣きで疲弊している道江には、そんな余裕なんて最初からないのかもしれない。
満足に睡眠をとれていない充血した瞳が、オレを咎めるように見据えて、ストレスをぶつけるように低く紡がれる今日の出来事は、聞いているだけで息苦しくなって、ここで仕事の疲れをとらなければ、神経と正気がガリガリと削られていく。
そこへ追い打ちをかけるのが、和生の夜泣きだ。
断続的に睡眠を邪魔されて、交代で寝起きしながらあやしているのだが、一向に収まる気配を見せず、今日も金切り声のような泣き声を上げて、オレたち夫婦を不幸にするのだ。
そもそも、あの不可解な生物は、なんでこんなに不快な声を上げるのだろう。まるで、産み落とされた恨みを晴らすかのように、キンキンと空間に音を響かせて、顔を赤く、くしゃくしゃにして泣きわめく姿。
オレの母は以前、苦笑まじりに語ってクギをさしてきた。
赤ん坊のころのオレは夜泣きがヒドかったから、新居を選ぶ際は、分厚い壁で近隣住民に迷惑をかけないようにしろ、と。
夜泣きのルーツは自分だという、思い出すだけで、なんとも忌々しく、なんとも苦々しい記憶。
冗談半分で深く考えなかったとはいえ、防音に優れたマンションの部屋を買ったのは、誰にも迷惑をかけない不幸中の幸いながらも、閉じた空間に響く赤ん坊の泣き声が、頭と心と体をダイレクトに抉っていく。
妻の実家もオレの実家も、お互いに飛行機の距離で、両親とも家庭内の事情で助けに応じてくれる余裕がない。加えて、新居を一括で買ったから、家事代行を頼む金もない。
オレたちは、ひたすら自分の命を削りながら、嵐が通り過ぎるのをじっと耐えるしかないのだ。
――けれど。
和生が死ねば、安心して眠ることができる。
夜泣きのたびに起こされて、なんども床に叩きつけようかと考えたか分からない。
仕事中に寝落ちをしていたことを、同僚に指摘されて、なんども恥ずかしい思いをしたか分からない。
つねに脳内に、冷たい砂が居座っているような、ぼやけて重たい感覚を引きずって、妻を気遣い、仕事に従事する。
あぁ、オレは、なんのために生きているんだろう。
「育休とるか?」と、青い顔をするオレに対して上司は心配そうに提案するが、オレは反射的に悲鳴を上げて拒絶した。
冗談ではない。二十四時間も逃げ場のない家の中で、赤ん坊を中心とした、生活をするなんて拷問でしかない。
そんなことを口走ると、上司の眉が寄って、眉間の縦ジワが三本刻まれた。
「いいか、お前の奥さんは、そんな拷問のような生活を送っているんだぞ。離婚されたくなかったら、自分を殺してでも機嫌を取れ! それとも、お前は離婚したいのか?」
この上司の言葉は、パワハラだろうか、モラハラだろうか?
亀みたいに首を持ち上げて上司を見上げるオレは、ドライアイがちな目をしょぼしょぼとさせながら、力なく首を横に振った。
肯定ではなく、屈服の意味で、だ。
ただ、とにかく寝たかった。
安心して安らげる場所が欲しかった。
帰り道の途中で、明かりが灯りはじめた家やマンションの部屋に、たまらない気持ちが込み上げてきて、不動産屋に滑り込む形で部屋を借りた。
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