カエリミチ

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――おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ! 「いつもありがとう、道江。残業で遅くなった分、和生の面倒見るから、向こうで休んでくれ」 「……え、いいの? ありがとう」 ――おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ! 「干しっぱなしだった洗濯物、片付けといたぜ。道江みたいに、キレイに(たた)めてないけど、それは許してくれ」 「いいえ、そんな。やってもらえるだけで、ありがたいわ」 ――おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ! 「今度の休みに、久々に羽根を伸ばしてくればいい。歯医者も行けてないし、美容院も久々に行きたいって言っていたよな。和生のことは、オレにまかせてくれよ」 「あ、覚えててくれたんだ。うれしい、ありがとうっ!」 ――おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ!  ぜんぶ、ぜんぶ、うまくいっていたんだ。  うまく休憩をとることで余裕が生まれて、道江に対して優しく接することもできて、和生を殺さずに父親を演じることができた。 「あなた……耀治(ようじ)さん」  久々に名前を呼ばれてどきりとした。  リビングのソファーにぐったりと身体を預けている、なにも知らない痛々しい道江をみると、罪悪感と共に切ない感情が胸を締め付ける。  浮気した夫が妻に優しくなれるのは、自分が密かにうまく楽しんでいる優越感があるのかもしれない。  こけた道江の頬にオレが手のひらを当てると、艶を失ったかさりとした感触に、背骨の辺りが、うずうずとした心地よさを覚えた。  涙をためた瞳をオレに向け、感謝で表情を輝かせる彼女の滑稽(こっけい)さと愛おしさ。  自分が圧倒的に上にいながらも、秘密を抱えている足場の悪さと背徳感が、性欲とは別のおだやかで温かい感情を呼び起こし、きわめて冷静に愛情を妻に注ぐことができた。  花に水をあげるように、釣った魚にエサをあたえるように、喉元(のどもと)を過ぎても暑さを忘れないように。  だけど、オレは大きな見落としをしていた。  道江がどれほどのストレスを一人で抱えていたのか、オレの前で気丈にふるまい、なんとか踏み止まって繋ぎとめていた理性と小さな命。  赤ん坊はガラス以上に(もろ)くて繊細(せんさい)な生き物であり、気を抜けばすぐに生命(いのち)が危うくなることを、オレはすっかり失念(しつねん)していたんだ。 「愛しているよ。道江」  あの時、そう言って、オレは道江の唇を塞いだ。  久しぶりのキスの味は、枯れた花の香りを思わせる、甘くて寂しい味だった。 ◆ 「おい! 今、どこにいる! 浮気相手の家にいるんなら容赦(ようしゃ)しないぞ!」 「――っ!」  朝の9時。  恐れていた事態が、最悪な形で発生した。  いつものように借りた部屋で仮眠のつもりが、朝まで寝てしまったことに気づいて、スマフォからの上司の怒声(どせい)で眠気が一気に吹き飛んだ。    
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