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自分が一番、悪いのは分かっている。
道江は必死だった。必死に踏み止まって、ろくに眠れていない頭と体を引きずって、家族の為に尽くしてくれた。
そんな妻を、オレは背後から撃ったんだ。
連絡がつかない夫。
残業続きのウソ。
浮気疑惑。
どれほどのストレスが、彼女を蝕み苛んだのだろう。
糸が切れた人形のごとく、道江は崩れ落ちるように倒れて、和生は下敷きになる形になった。
医者の説明によると、和生はオレが駆けつける一時間前までは生きていたらしい。
住んでいたマンションが、防音機能に秀でた弊害だった。和生がいくら泣き叫ぼうにも、だれもその声が届かないのだから助けようがない。
「――っ! ――っ! ――っ! ――っ! ――っ!」
「――っ! ――っ! ――っ! ――っ! 」
「――っ! ――っ! ――っ! 」
あれから、両家にも上司にも、知らない人間にも責め立てられた。
会社が休職を受理してくれたものの、休みが明けたら自主退職を勧められるのは分かりきっていた。
どうして、こうなってしまったのだろう。
葬式や会社の手続きや、買い物などの所用を一人でこなし、毎日がくたくたで疲弊していく中、オレの帰る場所は1DKの狭い部屋。
あの部屋だけは、変わらず自分を受け入れてくれる。
「ただいま」
自分を脅かす存在がいない、安らぎに満ちた子宮のような安全地帯。
「つかれた」
そう言って、せんべい布団で横になった時、思ってしまったんだ。
――やっと、死んでくれた。
これで思う存分、好きに寝ることができる。と。
今、振り返ると、ソレが異変のトリガーだったのかもしれない。
◆
おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあ……っ。
◆
最初は遠くで赤ん坊が泣いていると思ったんだ。
だけど、すぐに分かってしまう。
どんなに、その泣き声を聞かされたか。
どんなに、その泣き声に悩まされたか。
どんなに、その泣き声に殺意を抱いたのか。
薄く目を開けると、暗闇の中で赤ん坊を抱いた道江が見えた。
距離的にも離れているのに、彼女の青白い顔がはっきりと見えて、死んだ魚のように淀んだ瞳に、眠りを貪っている夫の姿を映っている。
「オカエリナサイ」
紡がれた言葉には、なんの感情もこめられていなかった。
――おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ。
「オカエリナサイ」
――おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ。
「オカエリナサイ」
――おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ。
「オカエリナサイ」
合間合間に差し込まれる、妻の言の葉と赤子の哭き声。
耳の穴をこじ開けるかのように、執拗に響く赤黒い叫喚の嵐は、オレの睡眠を妨げるどころか実生活へと浸食していった。
アパートの部屋に帰れば、必ず現れる道江と和生。
「オカエリナサイ」
泣きわめく声とともに、道江は毎回、同じ言葉を紡ぐ。
オレが「ただいま」を言う前に。
オレがこの部屋に入ることを拒むように。
――おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ。
うるさい、うるさい、うるさい、だまれ! だまれっ!
最初から、お前なんか嫌いだった。
オレから道江を奪いやがって。
お前なんて、生まれてこなければよかったんだ。
――おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ。
耳を塞いでも、目を閉じても、直接脳内に音と映像が刷り込まれて、悪夢の責め苦が寝ても覚めても続いていく。
アパートの部屋どころか
買い物先に
役所に
息抜きで入った店の中に
オレにしか聞こえない泣き声をふり絞り、オレにしか見えない姿で現れて、オレにしか感じない罪悪感を刺激して、無視をすれば後ろにぴったりと張り付いて、執拗に無限に悪夢の責め苦を繰り返す。
「占い師さん、オレには今でもしっかり聞こえているんです。後ろからパーテーション越しに気配も感じます。お帰りなさい、お帰りなさい。と」
「…………」
返答代わりの沈黙に、とてつもない羞恥が込み上げてきて、耳のあたりが熱くなった。
話すんじゃなかったという後悔と、それでも解決の糸口を諦めきれない未練がせめぎ合い、いっそ狂ってしまえば楽なのにと鼻の奥が痛くなる。
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