彼と貴方の話

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私は貴方の声を聴くことができる 耳を澄まして、幾度でも この声がたとえ幻だったとしても、 そう、幾分にも耐え難く、 遥か古の出来事だとしても、 私は今でも 貴方の声を、声だけを、 こうして聴くことができるのです 昔むかし、彼の国に一人の青年がおりました 彼はまだ年若く、かと言って子供ではありませんでした 鳥の鳴く声で目覚めた彼は、背中に弓矢を背負うと簡素な木のドアを開けて出掛けて行きます 森の奥で黄金に輝く雄ジカを見つけます 彼は雄ジカをじっと見つめます 雄ジカも目をそらそうとはしません 彼はすっと空気が変わったことに気づきました その瞬間、勢いよく大地を蹴った細く長い脚が、彼の横を颯爽と通り抜けて、立ち止まったかと思うとこちらを振り返り、また彼を見つめます 雄ジカの大きな瞳は、彼を認めているかのようでした 彼はゆっくりと息を吐くと、雄ジカに向かって弓を構えました 朝靄の中、張り詰めた空気はとても心地よく、彼が笑うと雄ジカはゆっくりと優雅に去って行きました 腕の緊張を解くと彼は笑いながらもと来た道へと帰りはじめました 昔むかし、彼は小さな猫でありました 猫と言っても、子猫ではありません 立派な大人の野良猫です 彼は今日も餌を探しにトタン屋根の粗末な家を抜け出します 今無人のその家は、野良猫の溜まり場です 彼は隣で誰かが寝るのは嫌いですが、群れるのは嫌いではありません しばらく歩くと商店街が見えて来ました 彼は可愛く鳴いて餌を貰ったりはしません するりと人混みを通り抜け、何食わぬ顔で並べられた商品を咥えて逃げるのです 彼は立派な大人の猫ですから、人間からも一目置かれています だから、彼は人間に追いかけられることはありません 今日も餌を咥えて颯爽と走っていると、なぜか少年が彼を追いかけ始めました 少年の母が名前を呼んでいますが、少年は構うことなく彼を追いかけます 彼は何事かと少しびっくりしましたが、彼は立派な大人の猫ですから追いつかれるわけはありません 角を曲がると、耳を澄ましました 軽い足音は聞こえません にやりと笑うといつもの公園の隅に向かいます そこは陽の光がちょうどよくとても心地よいのです 餌をゆっくり食べていると、油断していた彼は頸をがしっと掴まれました 彼は驚いて爪を立てることすら忘れていました 少年が彼の頸を掴んだまま、顔を覗き込みます とても瞳の大きな少年で、少し癖のある髪は短く揃えてももみあげはくるりと巻いています 彼はぶらんとぶら下がったまま少年を見ます 少年は片方の手で彼の顎をすりすりと撫でますが、彼は少しも気持ちよくはありません ただ抵抗する気にはなりませんでした 雑な少年は彼の頸を掴んだまま歩き出します 走って追いかけて来た母親の息切れの音と、少年の心臓の音が聞こえました なぜか急に彼は寂しくなりました 風除け程度の粗末な家と、隣で眠る仲間の温もりは生きていくには十分でした それがなぜか寂しくてたまらなくなったのです 母親が頷くと少年は彼を両腕で抱えました それは、彼にとっては初めての熱さと言ってもいいほどの温かさだったのです 彼は目を閉じました 少年の心臓の鼓動は聞いたことのない子守唄で、彼はその温もりの中で初めて子猫になったのです 昔むかし、彼はりんごの木でした ただのりんごの木であり、実ではないのです ある日、裸の人間がその実を食べてしまいます 彼は食べた人間がどうなるかは知っていましたが、特に何とも思いませんでした 彼は木であり、実ではなく、たとえ何が起きようとも立っていることしかできないのです その日も彼は立っていました 見るともなしにそのやり取りを見ていたのです 蛇がやって来ました 人間に実を食べるよう唆しているのです 甘くて美味しそうな実を手に取ることをためらう人間を言葉巧みに惑わすのです そうすると彼は自分が実を食べたい衝動に駆られます すぐそこにある実を彼は食べることができないのです 人間は実を手に取ります それは失落の悦びでした 神の怒りをかった人間は楽園を追放されるのです そして蛇は手を足を捥がれて地に這いつくばることになったのです なぜでしょう 彼はそんな蛇が、人間が、羨ましくてなりませんでした ずっと立っているだけの彼は楽園と呼ばれるこの地の平和には寂寥感が漂っているように感じられるのです そこに、蛇が彼に巻き付くようにして登って来ます 蛇はにやりと笑うのです かぷりと真っ赤な内側を見せて、蛇が実に噛み付きました 甘い汁が滴り、彼の体に染みていくのです 葉が枯れ、彼の体がひび割れていきます 蛇は崩れゆく彼の体に這い回ります 蛇は知っていたのです 人間の望みも、彼の望みも 悪魔という名で呼ばれる蛇の神気に彼は感謝しました 彼は初めから木であり、これからも木でした 蛇のおかげで、彼は朽ちることができるのです 蛇は這い回り、崩れゆく木の欠けらで暖をとりました 蛇はこの中で眠ることを決めました 春になればここを出て行き、冬になる前にここに戻ってくるのです 蛇は眠くなりました なぜか一人ではない気がして、思わず微笑んだのです 昔むかし、彼は一人の少年でした 恥ずかしがり屋でぽっちゃりしていました 勉強は嫌いではありませんでしたが、彼には夢ができました 歌手になりたいのです 恥ずかしくてとても友達には言えません こっそり彼は夢を追いかけ始めます 彼は自分に自信はありませんでしたが、とても正直でした 誰に何を言われても努力し続けました その努力は実りました それでも彼は努力をし続けます 何かを得ると同時に何かを失っても彼は努力し続けます それはすでに自分のためだけではなくなりました 努力を認めてくれた誰かのために、 そして、いつかまた出会うもう一人の努力をし続ける貴方のために 彼は時々自分が何者か忘れてしまいます 彼は歌手になりました 新しく芸名がつきました 今も本当の名前は変わりませんが、それは時々どうでもいいことのように感じられます 演技をして彼は誰かになります 努力を認めてくれる誰かのための誰かになります 苦痛ではありません それも彼自身だからです すると、名前などどうでもよくなるし、実際どうでもいい気がするのです そして彼は自分が何者か忘れてしまうのです 彼は狩人で、 時には猫になり、 りんごの木でもありました なぜか夢ではない気がするのです そして、彼は貴方を感じます 狩人の弓の先の雄ジカの瞳に、 猫を包み込む少年に、 立っているだけの木に命を与えた蛇に、 信頼と 温かさと 新しい変化を 彼は何者でもいいのです その隣には貴方がいつでもいることを知っているから 私は貴方の声を聴くことができます 毎日でも聴くことができます イヤホンからいつでも 貴方の声を聴くことができます たとえ何者であっても、 私に聴こえる貴方の声は、 遥か未来、 過去を越えて、 私の耳に、 心に響いて、 私を貴方の元に導くでしょう
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