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遠くどこかの街に雷が落ちたんだって。
ピカって光って、しばらく窓の外を眺めた。
ドーンっと雷が地表に辿り着く音を聞いた時、彼の名前を思い出した。
やむを得ず、大地めがけて放電する雷の、勢いとその抗えなさと。
いきなりやって来て俺に痛みを残して、それを俺のせいだと言い放ち消えてしまった。
あっという間の出来事で、熱を持ったまま冷めずに立ち尽くす俺は、雷を受け入れざるを得なかった大地のようだと。
ネクタイを緩めながら、おぼつかない足で地下への階段を下りた。
ドアの小窓からオレンジの明かりがぼんやり足元を照らしている。
目が慣れると、店内はすべて赤を基調としていることに気付いた。
照明のせいか赤い椅子や壁紙や絨毯は、暗さを黒さを強調していて、妖しい雰囲気と言うよりその暗さのおかげか、どこか静かだけど温かい空気を従えている。
他の店で飲み始めてから4時間は優に超え、初めて入ったこのバーを最後にしようと、カウンターの店員に声を掛けるために顔を上げた。
目を伏せていた店員が顔を上げた俺を見やって、薄く微笑んだ。
彼の長い睫毛が影を作り、手元のグラスに反射した光が一瞬、その影の中を移動した。
「強くて苦いお酒下さい。」
頷いた店員は隣の年配のバーテンダーに伝えたようで、グラスを拭く作業に戻った。
透明な液体が三角のグラスに注がれて、すっと目の前に出された。
一口飲むと、喉が焼けるようなひりつきにさっきまでの痛みを思い出した。
「お祝い事だったんですか?」
長い睫毛の店員が眉間にしわを寄せた俺を気遣ったのか、話しかけてきた。
ダークスーツに光沢のあるネクタイをした俺の姿に気付いたのだろう。
一口飲むと頷いた。
ぴりっとした痛みの奥で、恋人だったはずの男の新郎姿を思い出した。
家に帰って、ポストに入っている封筒類をテーブルに広げた。
白い分厚い封筒に気付いた。
裏の名前を見て目の前が白くなった。
人はショックを受けると目の前が暗くなるんじゃなくて、白くなるのだとこの時初めて知った。
翌日会社に行くと、恋人だったはずの男が皆に祝いの言葉を掛けられていた。
そいつは一睡も出来なかった俺を手を上げ呼び寄せた。
親友のお前は知ってたんだろうと同僚に笑いかけられ、そいつは俺の肩を掴みながら、祝辞はこいつだからと皆に言い放った。
そいつの俺の肩を掴む手に力が入った。
話を合わせるようにという意味だろう。
泣くのを我慢した覚えしかないが、きっと俺は笑えていたんだろう。
周知された通り、何時間か前にそいつとそいつの横に座って微笑んでいる綺麗な新婦に祝いの言葉を贈った。
自分の行為を許されたと思っているそいつの笑顔が憎くて堪らなかった。
それでも、嬉しそうなそいつの顔に胸が締め付けられて、自分の思いの深さに呆れるしかなかった。
目の前にある顔は、憎らしい元恋人のそれではなかった。
見覚えのある男の奥に見えるのは、見覚えのない天井で、ここがどこかはっきりしないまま息を吐いた。
「起きた?」
頷くと、その男が服を着ていないことに気付いた。
「・・・ここ、どこ?」
擦れた声で聞くと、彼は手にぶら下げた鍵を見せた。
ここがホテルだと言うことが分かった。
ビジネスホテルなのだろう、無機質な空間が非日常に拍車をかける。
彼がペットボトルに手を伸ばし水を飲んだ。
彼の首に零れた水が滴った。
ごくんと唾を飲み込んだ俺に彼の顔が近付いた。
抗う暇はなかった。
指で唇を開けられ、彼の唇が近付き、まるで恋人のように口づけで水を飲まされた。
飲み込む水はぬるく、やたら甘い気がした。
彼がバーの店員だと気付いたのはちょうど水を飲んで軽く意識を取り戻してからだ。
酔った俺を介抱してホテルに連れてきたのだろうか。
なぜここにいるのかと聞こうと口を開くと、そこに彼の唇が落ちてきた。
覚醒した意識がまた遠のいた。
舌で咥内を弄られ、まるで強い酒をあおったかのような痺れが頭の奥に突き抜けた。
彼が誰かも、ここがどこかも、恋人だったはずの男の幸せそうな顔も、すべてがどうでもよくなった。
痺れはやがて背筋を伝って下半身の熱を煽り、同じように熱を持った彼のそれが持ち上げられた脚の間で硬くなっているのに気付いた。
解されることなく、皮膚が擦れ捲られる冷たさすら感じられる痛みで声を上げた。
勃ちあがった彼のそれが俺の中で激しく動きだした。
前後される度に感じる痛みに声を上げたが、それはやがて甘い痛みに変わり、吐く息も声も彼の興奮を煽っていることに気付いた。
自分からキスを求めると、惜しげもなく与えられ、口の端から垂れる唾液に満たされた。
痺れも痛みも甘く、ただ律動に身を任せた。
自ら白い液を吐き出し腹に感じる生ぬるさと、体の中に吐き出される熱さに溺れて、何度果てたかもう覚えていなかった。
意識が薄れていく時に、窓の外の明かりで浮かんだ彼の睫毛の影になぜかほっとして、涙ですべてがきらめいて見えた。
翌朝目を覚ますと、隣に彼の姿はなかった。
べたべたと不快な自分の裸体を眺めると、夢ではなかったのだと思って少しの後悔に襲われた。
カチャリと音がして顔を上げると、シャワーを浴びてきた彼と目があった。
何もなかった。
ばつが悪そうな顔も、ましてや笑顔もなかった。
むしろ、怒っているような顔をしている。
「シャワー、どうぞ。」
それだけ言うと、隣のベッドに座ってテレビをつけた。
俺だって何を言うつもりもなかったが、彼の冷たい態度に腹が立った。
ベッドから立ち上がると、股の間を液体が零れたことに気付いた。
吐き出された昨日の名残りの現実と、彼の態度の違いに余計に苛立ちが募った。
下着を拾い、バスルームに行くと綺麗なタオルが掛けられていた。
当然の行動なのか、優しさなのか、それを考えている自分が嫌になった。
元恋人の結婚式に行って傷ついたばかりなのに、新しい出会いに期待しているような自分の感情に苛立った。
Tシャツとパンツ姿でバスルームを出ると、帰り仕度の済んだ彼がベッドに座って俺を迎えた。
「金は払ってるから。」
そう言う姿は紳士らしいわけでもなく、先程と変わらず怒っているような口調だった。
その口調に記憶が甦る。
彼は激しく俺に打ちつけながら、お前のせいだと口走った。
すべてを忘れたかった俺はその激しさに救われた。
きつくて、痛くてひりついて、心の痛みを忘れられた。
吐かれたセリフは頭の奥に消えて、今思い出した言葉の意味を知りたくなった。
スマホをきつく握る彼の両手を見た。
全部が怒っているみたいな彼の態度の理由も。
「・・・昨日、なんで・・・」
「お前のせいだから!」
遮られて発せられた言葉は記憶の中と一致して、いまだ怒った口調のへの字の口が卑猥に動いたのを思い出した。
彼は頭を抱えた。
「こんなつもりなかったんだ。だけど、お前が・・・、お前がタクシーの中で俺の事誘ったんだ。恋人が結婚して苦しいって。俺の手を握って、俺を見上げて、苦しいって・・・。どうしろって!・・・恋人の名前を繰り返しながら近寄って来て・・・。ただ送るだけのつもりだったのに・・・。」
髪を掻き毟りながら、吐き出した言葉はまるで子どもみたいな言い訳だ。
元々くせ毛なのだろうか、余計にくるりと巻いた髪が四方に跳ねて、彼の絡まった気持ちの様だ。
どこか静観している自分がいて、苛立ちはすでにどこかに消えていた。
昨夜の行為の余韻でだるい体と、酔いが覚めて我に返った後悔と、そして、どこか心地よい彼の正直な怒りと、それらすべてが元恋人との関係の苦しさを和らげてくれている気がした。
手を伸ばした。
頭を抱えたままの彼の白いうなじに、なぜか触れてみたいと。
手が触れる前に、がばっと顔を上げた彼が潤んだ瞳で俺を睨んだ。
何も言わず、俺の肩を押すと足早にドアに向かった。
これで終わりにすればいいのに、彼を呼びとめようと体が勝手に動いた。
だけど、彼の名前も知らないことに気付いた。
呼びとめる言葉が浮かばなかった。
カチリとドアが自動で閉まる音がした。
1人残された部屋で、呆然と、いや追いかけたいと思う自分の気持ちの浅ましさに恥ずかしくなった。
誰かに縋りつきたいわけじゃない。
新婦の横で、俺といた時よりも肩の力が抜けたような元恋人の笑顔が憎くて、でも何故か嬉しいと思えて、それが悔しくて堪らなかった。
ただ、誰かに優しくされたい。
優しくしたいだけなんだ。
また恋ができるかもしれないと、彼に縋りたいわけじゃない。
大人っぽい雰囲気と真逆の彼の子供染みた言い訳になぜか癒されて、腕を伸ばして優しくしたいと思った。
そんな自分が恥ずかしくて、自分を戒めてるつもりか、閉まったドアから目が離せなかった。
ドン!ドン!ドン!
激しく叩かれたドアが震えている。
何事か分からないのに、足は動いてドアの前に来ていた。
自分が今どんな格好をしているかも忘れていた。
ドアノブをまわした。
開けたドアの向こうで、息を切らした彼が口元を拭いながら俺と目を合わせた。
そうだ、そうだった。
痛みが快感に変わって、キスをしたいと彼の頬に手をやった。
長い睫毛がゆっくりと開かれて、彼の大きなキラキラした瞳が見えた。
今目の前に、同じ瞳が俺を見ている。
「・・・お、お前のせいだから、連絡先・・・、責任取って、連絡先教えろ!」
顔を真っ赤にして、興奮した鼻が膨らんでいる。
おかしくなって大声で笑い出した俺に、彼はもっと真っ赤になって、お前のせいだとまた口走った。
遠くで雷が鳴っている。
受け入れた熱はいまだ冷えずにここにある。
雷のように突然やってきた彼は、俺のベッドからのそりと起きた。
コーヒーカップを持った俺に気付くと、鼻をひくつかせた。
「おはよう。」
微笑んだ彼は、腕を伸ばして俺を抱きしめた。
それはそれは、とても優しく。
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