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3
男が水割りを頼んでから、暫く無音の時が流れた。店内の静寂が飽和する頃、ようやく男から口を開いた。
「めずらしいじゃないか、生身の人間の接待者は」全自動接客を導入しない店に、少しとまどったのだろう。
クレイグはそっとこたえた。「昔の名残りで現在も御賢察通り、自然のまま商いをしております」
男が「僕は嫌いじゃない」と云うと、その場の閉塞感が薄暮時に這う影法師の如く霧散した。
しだいに冗舌になった男は「AIでない店主と話したのは、実に数年振りだ」と、時折歯を見せて笑った。男はむしろ、いまだ古風なバーを営む老人の生きざまが気になるようだった。
クレイグのいわば、「こだわり」のようなものは彼の体中からにじみ出ていた。
「ところで、マスターはいくつなんだい」男がたずねると、クレイグは地球上ではちょうど百二十であることを伝えた。
「百二十?」男はいうまでもなく、おどろきの声をあげる。
クレイグは、初見に対するいつもの対応であったが、三十からずっと実践し続けたことについて話した。
「すると三十歳から」男は当惑しつつ、「三十年地上にいたのち、三十年太陽系外周遊船内を生活基盤とすることと同じ」と考え込んだ。それから計算を済ませると、また言った。
「船内で相対性理論により時間がゆっくり進むから、宇宙で三十年過ごすと、地上では六十年経つというわけか」彼が得意満面で語ると、老人はやや照れくさそうにして答えた。
「おっしゃる通りです。本来九十ですが、疲れた満身創痍の躰にまだ鞭うちながらやっているのです」
年の話をすると必ず、頭の中にそれまでの日々が蘇る。煩悶の幾星霜はどうあがいても、元へは戻らない。
思えば、ここへ足しげく通ってくれた人々の中に、長年の比類無き親友たちの姿もあった。
妻が亡くなった後でもきっと、悪くない時代はあったのだろう。ただ健気で、純真無垢の頃から知っていた友人たち。彼らと編んだ秩序は、自制のない酔っぱらいを寄せ付けなかった。一面星河輝く夜には数人で、飛び立つ周遊船を拝みに行くこともあった。
だが、彼らももうこの世には居ない。
今際の際をなお老人が先へと伸ばすのだから、当然だろう。いつしか、彼らとの歩みは徐々にずれていった。
浦島太郎が玉手箱をあけたときも、似たような景色を見たにちがいない。
「それはさぞ寂しかっただろうに」英国紳士は店主のこころを推しはかって言った。
「妻との約束がありますのでね」老人の意味深長な言葉に対し、男はそれ以上踏み込もうとしなかった。
やがて男が帰ると、店にいつもの静けさがもどった。
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