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2.魂を盗る者
「鈴?」
ぐるりとあたりを見回してみる。
人はいない。ハトも猫もいなかった。神社の周囲は木々で覆われていて、ときどき吹く風に煽られ、もみじの赤い葉がざわめき立っている。
「違う、さっきの音はもっと高くて……」
チリン。
そう、こんな感じ。
「あ! これ! どこからだろう?」
わたしは、その綺麗な音の正体が気になった。
もっとよく聞こうと、目を閉じて耳を澄ませた。集中力を高めようとすると、呼吸は自然と大きくゆったりとしたものに変化していく。
ああ、この感じ、心が落ち着くかも。
もう一度、わたしは大きく息を吸って、それから吐いた。
まるで、神社に漂う、凛とした空気に溶け込んでいくような……。
チリン。
「こっちだ」
音に誘われるように足を進めると、ひとつの細い道の前へと辿り着いた。そこから先は、砂利でも土でもなく、古びた石畳が敷き詰められている。
「神社の中にこんな道、あったかな?」
一歩、一歩と歩くうちに、森の奥深くに飲み込まれていくような気分になる。戻れなくなるかも、と思うとやっぱり怖い。
わたしはコートの下でカーディガンの袖を掴んだ。
来た道を振り返ってみる。大丈夫。一本道だから迷うことはない。もう少しだけ、進んでみよう。
そう思い、再び前を向いたときだった。
「ひゃあっ」
痛いくらいに眩い光が飛び込んでくる。
わたしはとっさに両腕をクロスするようにして顔を覆い、ぎゅっと目を閉じた。
「な、なに?」
恐る恐る目を開くと、そこには白く美しい毛並みをもつ大きな狐が一匹、でんとただずんでいた。
「うむ。合格だ」
その狐は身を乗り出して、鼻先をこちらの顔にくっつきそうなくらい近づけてくる。怖くないといったら嘘になるけど、まるごとペロリと食べられてしまうような気配はなかった。
「え? どういうこと?」
「ふむ。年は十五、六といったところか?」
「じゅ、十六です。あ、あなたは?」
ここは神社。今の状況から考えると、神様ってこと?
そんなまさか。
頭が上手く回らない。
「私は千影之狐」
「ち、ちかげのきつね? か、神様?」
「正確には違う。神使と呼ばれる、神の使いだ」
わたしはその場に突っ立ったまま、彼の言葉を一つひとつ理解しようとした。……うう、できない。
これは、夢?
失恋のショックで寝込んで、おかしな夢を見ているのかもしれない。あり得る。それが一番しっくりくる。
「い、痛い」
冷たい指先でほっぺたをつねると、じんとした。
「おい、小娘。何をしている」
「い、いやなんでもないです。え、えっと……。それで、カミのツカいのキツネさんが、なにかわたしにゴヨウですか?」
片言になるのも無理はないよ。
「合格だ」
またその言葉?
さっきも同じことを言っていた。
「あのう。わたしが、何かに受かったってことですか?」
「そうだ。聞こえただろう? 鈴の音が」
「き、聞こえました。あれ、あなたのしわざ?」
「そうだ。人間たちの試験をしていた。音が聞こえて、導かれて、ここまでたどり着いたのなら合格。それに受かった。喜べ」
なんだか、ちょっと上から目線な狐さん。
「ええっ。いきなりそんなこといわれても」
「なんだ、嬉しくなさそうだな」
「そりゃあ」
なにをどう喜べというの!
「ならばひとつ、神まで願いを届けてやる」
その言葉に、じたばたしていた手足をぴたりと止める。
「……なんでも叶いますか?」
「さすがにそういうわけにはいかん。神にもどうにもならんことはある。だが、そうだな、さっきの恋とやらなら、なんとかなる可能性は高い。百パーセントではないが、恋愛成就はこの神社のご利益のひとつとしても知られているからな」
誰かに聞かれていたという恥ずかしさが込み上げてくる。
だけど……。
「わたしの恋、叶うかもってことですか?」
「可能性はある。この神社に限って言えば、願い事はすべて神へと伝えられているわけじゃない。私や小間使いが聞いていたものや、絵馬に書かれているものから選んで届けている。だが、お前の願いは必ず伝えると約束する。そこから先は、神の計らいと、願う者の行動次第といったところだな」
「本当に?」
少しでも、チャンスがあるなら逃してなるものか。
「ああ。不本意ながら、こちらも人間に頼らざるを得ない状況なのだ」
「……詳しく教えてもらえますか?」
「ああ。順を追って話そう」
狐さんはそう言ったかと思うと、突然わたしの視界から消えた。
「あれ? 狐さん?」
あっと驚く間もなく、浮遊感を感じたわたしは、そのまま空高く舞い上がっていた。
「な、なに、これ!」
地面が、神社が、町が、どんどん遠く、小さくなっていく。
狐さんにくわえられて、上空を飛んでいるらしいということに気づいたのは、少し経ってからだった。
落ちる、落ちる、落ちる。せめて背中にのっけてよ! そう言いたいのに、怖くて声すらでない。
わたしはぎゅっと目を瞑った。
「ついたぞ」
狐さんの声がする。
たしかに、ローファの裏側がどこかに触れている感覚がする。
わたしはゆっくり目を開けて、ひゃあっとまぬけな悲鳴を上げた。
とっさにすぐそばにあった太い木の幹にしがみつく。あたりには木々の葉っぱたちが生い茂っていて、風に揺れている。
そして遠くには……。
「うわあ」
夕暮れの町がどこまでも広がっていて、思わずうっとりと声を上げる。足場がしっかりしていたのなら、普段は見ることのできないこの美しい風景を楽しめたかもしれない。
でも!
今はそれどころじゃない!
はっと我に返り、声を上げる。
「ど、どこですかここ!」
「見ての通り、山にある木の上だ。ほら、あそこに川があるだろう? 橋がかかっている」
狐さんは視線を一角へと向けながら、そう言った。
「ちょ、そんなこといわれても……。た、たしかにありますけど」
わたしは彼と同じ方向を見つめて言った。こっちの心境なんておかまいなしに会話を続ける気でいるらしい。
なんてマイペースなんだ。
「あのあたりには、いくつか旅館がある」
「有名な観光地ですもんね」
とにかく、さっさと話を聞いて、地上に下ろしてもらおう。
ここは高くて怖いし、寒いし最悪だ。
「その通り。お前さんには、あの場所にある、とある旅館に潜り込んで欲しい。探ってもらいたいことがある」
「……なんのために?」
「私はこのあたりの見廻りを任されている。もう、九年ほどになるな。悪さをするあやかしをこらしめたり、迷子となった霊魂を導いたり。そういうようなことをしている。それで、一ヶ月ほど前から不穏な動きがあると報告を受けてな」
「ふ、不穏って?」
「どうにも、よからぬあやかしに魂の一部を盗られている人間がいるらしい」
目の前には非現実的な生き物。突然、語られるファンタジックな話。わたしは状況がちっとも飲み込めず、壊れてうんともすんとも言わないスマホみたいにフリーズした。
「……聞いているのか?」
「は、はい。ええっと、魂を盗られるって……。それ、まずいですよね?」
「ああ。かりに半分抜かれたとすると、本来の寿命の半分しか生きられなくなる」
なんてことだ!
「大変!」
「上も問題視していてな、なんとかしろといわれている。調査していたところ、どうやらあの旅館に泊まった人間から魂が抜かれているらしいことがわかった。だが、それ以外のことがさっぱりで困り果てている。そのあやかしの目的はもちろんのこと、犯人がどんな姿となっているのかも……。従業員に紛れているのか、客としてあの場にいるのかすらな」
「それで、忍び込んでほしいってわけですね」
「いかにも」
「あのう、それ、けっこう危ないような……。わたしも魂を盗られてしまうかもしれませんよね」
ぽつりと呟く。
「わかっている。お前の身の安全は保証しよう。そこは、心配しなくとも問題ない」
「……本当に?」
この狐さんを信用していいものか、いまいちわからない。
「小娘よ、神の遣いである私を疑っているのか?」
わたしのじとっとした視線に気づいた狐さんは、エメラルド色の瞳をぎろりと光らせた。
「そういうわけじゃないですけど……。でも、神様たちにとっては、わたしなんて、ただの人間のひとり。どうなってもあんまり関係なさそうだし」
「ふむ。一理ある。どうやらお前さんは、無条件に神を信用しているわけではないようだ。現実的とでもいうべきか」
「ご、ごめんなさい」
だって、大変なときに助けてなんてくれないもん、という言葉をぐっと飲み込む。
「よい。現代においては、なにも珍しいことじゃないからな。……では、こちらの理由ではどうだろうか。もしも、協力してもらった人間に何かがあれば、それは私の失態となる。普段から私のことをよく思っていない奴らが喜んでからかってくるだろう。それは嫌だ。私は自分のプライドのためにも、お前さんを守ると約束しよう」
急に狐さんの個人的な話になったけれど……。
うん。これならまだ説得力があるかも。だって、この狐さん、プライド高そうだもん。
「……わかりました」
「交渉成立だな」
「あ!」
「なんだ、もう気が変わったのか?」
狐さんはため息交じりに言った。
「違います! でも、わたし幽霊とか、そのあやかし? とか見えないんですけど、大丈夫ですか?」
わたしが伝えると、狐さんは目をまんまるくさせた。
さっきまでのきりっとした表情が一気に崩れて、なんだか可愛い。
「そんなはずはない」
狐さんは、もとの表情に戻り、はっきりとした声でそう告げてくる。
「ええ? でも……」
「鈴の音が聞こえた、私の姿が見えている。これ以上の証拠はない」
「そう言われても……」
「なるほど。その言葉が真実だというのならば……本当は見えるのにもかかわらず、見ようとしていない」
「え?」
思わず、狐さんの視線から逃れるように、顔をそむけた。
「違うか?」
「そんなこと、わかりません。……でも、たしかに小さい頃は見えていました。彼らと一緒に遊んでいた記憶があります。いつからか、消えてしまいましたけど」
それは、わたしにとってはあんまりいい思い出じゃない。
近所の子たちからは、一人ではしゃいでいるように見えていたみたいで、おかしな子だとひそひそ噂されていたから。
「そうか。まあいい。そのうち、見えるだろう」
「本当に?」
「おそらく。今日はもう日が暮れる。家の人が心配するだろう。話の続きはまたの機会にしよう」
狐さんが言うと同時に、また浮遊感に襲われた。
もう! この乱暴な運び方、なんとかならないの?! 目をぎゅっと閉じたまま、心の中で叫ぶ。
気が付くと、わたしは元いた神社の石段に立っていた。
「あ、戻ってきた?」
「明日、夕刻にここへ」
どこからか、そう告げる声がする。
あたりを見るも、狐さんの姿はどこにもなかった。
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