ただいまおじさんとぼく

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   僕には生まれつき、お父さんがいない。  お母さんによると、お父さんは「結婚してくれなかった」らしい。普通はお母さんのお腹に子供ができたら、お父さんはセキニンを取ってお母さんと結婚するものだ。しなかったってことは、お父さんは普通じゃなかったんだろう。お母さんの言う普通が何なのか、いまいちよくわかんないけど。  とにかく、僕のお父さんはお母さんと結婚してくれなくて、そのことでお母さんは、事あるごとに文句を言った。あんたの父親はろくでなしよ。あんたさえ産めば結婚してくれると思ったのに。独身だなんて嘘ついて、あの人ーー  そのお母さんは、今は都心にある〝夜のお店〟ってところに勤めている。毎日、夕方になると綺麗に着飾って出勤し、翌朝、僕が起きるといつの間にか隣の布団でぐうぐういびきをかいている。たまに、そうでない時もある。そんな日は逆に、僕が学校に出かけるまで帰ってこない。  で、その日。  いつものようにお母さんが仕事に出かけ、僕が一人で留守番していると、あいつはやってきた。 「ただいま」  最初、それは隣の部屋から聞こえて来たのかと思った。僕の住むアパートは古いうえに壁がベニヤ板で出来てんのかってぐらい薄くて、隣に住むおじさんが夜中かます寝っ屁の音まで聞こえてくる。だからその声も、またお隣さんかなと最初は思ったんだけど、そもそも一人暮らしのお隣さんが「ただいま」なんて言うのを聞いたことがない。  それに、いくら壁が薄くても、ここまではっきりと聞こえるわけが―ー 「ただいま」  また声がする。やっぱりそうだ。声は家の中からしている。それも、襖一枚隔てた玄関から。  僕の住む部屋は、玄関と一体化したキッチンと、その奥に二つの和室が串団子みたいに連なっている。奥の部屋は寝室で、寝るとき以外はあまり立ち入らない。普段の、例えばご飯だとか勉強だとかは真ん中の部屋に置かれたこたつ台で済ませている。  この時も僕は、そのこたつ台で宿題を片付けていた。つまり、声のした玄関の様子は、襖一枚開けば確かめることができる。  でも僕は、その襖を開けられない。 「……っ」  うっかり漏れそうになる悲鳴を慌てて呑み込み、こそこそとこたつ布団に潜り込む。たまにお母さんを訊ねてくる男の人の声とも違う。明らかに聞き慣れない声。まさか泥棒? いや、でも泥棒が「ただいま」なんてーー……  ただいま?  まさか。この声って。 「……ただいまおじさん?」  いいや嘘だ。あんなの、ただの噂だ。学校でまことしやかに囁かれる怪談。でも怪談は、あくまでも怪談であって現実じゃない。現実なら、先生からそう注意があるだろう。ただいまと言いながら他人の家に上がり込む不審者がうろついています。皆さん気を付けてください、とか……  でも声は確かにする。それに足音も。  やがて、かたり、と乾いた音がして、すーーーと何かが擦れる音がそれに続く。この音には聞き覚えがある。というか毎日聞いてる。キッチンと部屋を仕切る襖が開く音。  みしり。  今度は畳を踏みしめる音。気のせいか―ー気のせいであってほしいけど、ただいまおじさんのものと思しき息遣いも聞こえる。 「帰ったぞぉ。あれ? 誰もいないのか?」  いない。いません。ここには誰も。  こたつの中でじっと身を伏せ、息を殺しながらそう念じる。ばくばくとうるさいのはたぶん僕の心臓の音。あまりにもうるさいそれが、ただいまおじさんに聞こえてしまわないか怖くなる。  その後も足音は、僕の周りでみしりみしりと続いた。どうやらこたつの周りをうろついているらしい。いや、ここはあんたの家じゃないし、だから「ただいま」なんておかしいんだよ帰ってくれよ頼むから。幸いだったのは、たまたまこたつのスイッチを切っていたこと。いや、たまたまというか、一人の時は電気代がもったいないからってお母さんに使うのを禁止されてるんだけど、スイッチを入れていたら暑くてすぐにバテていただろう。  ただ、一方で弊害もある。真っ暗なこたつ中で、畳を踏む足音だけがみしりみしりと響くのは、その、すごくーー……  ピンポーン。  呼び鈴の音が、静けさを打ち破ったのはそんな時だった。  瞬間、ぴた、と足音が止む。立ち止まり、息を殺して表の様子を伺っているのだろうか。ほらな、やっぱりこいつは不審者なんだ。ここにいることが誰かにバレたらヤバいんだ。 「こんにちはー郵便局でーす」  ふたたび呼び鈴が鳴る。相変わらずこたつの外はしんと静まり返っている。  ……あれ?  おかしい。足音はともかく、さっきまでは確かに聞こえた息遣いも今はぜんぜん聞こえない。一度家に上がった不審者が外に逃げるには、寝室の窓か、さもなければ玄関から出て行くしかない。玄関から出れば、もちろん郵便局のおじさんが気付くだろう。逆に、寝室の襖が開けば僕がそうと気付くはずだ。つまり、ただいまおじさんは今も家の中にいてーーいなきゃおかしくて、だからこれは罠なんだ。今も僕と同じように息を殺して外の様子を伺っている。  やがて玄関の外から、郵便局のおじさんの気配が消える。  そうして静かになったところで改めて室内の気配を伺うと、やっぱり人の気配がしない。それでもこたつを出るのはやっぱり怖くて、引き続き息を殺していると、こんなヤバい時だってのにだんだん眠くなってくる。  駄目だ、眠っちゃ―ー  そう気を張れば張るほど、睡魔は僕を落としにかかってくる。どうしよう、怖いけど、でも眠い……そう葛藤する僕の頭に、ふとよみがえる声。いっそ、ただいまおじさんをパパにしてみろよ。あれは、確かワタルの言葉だったか……    カッカッと聞き覚えのある音にハッと目を覚ます。  まさか、と慌ててこたつを飛び出すと、ついさっき仕事に出かけたはずのお母さんが、疲れた顔で台所の襖を開いたところだった。 「何やってんのあんた、こんなとこで」 「え……?」  まさか、とテレビ台の時計を見ると、針は三時を指している。窓の外は真っ暗で、さすがに午後のはずがない。 「え、っと……ただいまおじさんは……?」 「は? ただいま……何?」  やばい、と俺は直感する。これ以上俺が何か言うと、たぶんお母さんはキレる。ただでさえ仕事終わりのお母さんはイライラしていて、パンパンに膨らんだ水風船みたいに慎重に扱わなきゃいけないのだ。 「ううん……何でもない」  俺はすぐにこたつを出ると、歯を磨き、パジャマに着替えて寝室に向かう。布団を敷き、まだ冷たいそれに潜り込みながら、俺は一人、夕方の出来事を思い出してみる。  怖かった。そりゃそうだ。いきなり見知らぬおじさんが家に上がり込んできたんだから。  でも……改めて思い出すと、ただいまおじさんの声だとか足取りから伝わる雰囲気そのものは、あまり、怖くなかった気がする。少なくとも……たまにお母さんが連れてくる、すぐ怒鳴ったり叩いたりする男の人よりは、うんとずっと優しかった。  ーーただいまおじさんをパパにしたらどうだ?  案外、それも悪くないかもな。  なんてことを考えられるのも、お母さんが帰ってきて気持ちに余裕が出来たおかげかもしれない。けど……ただいまおじさんを、おばけを、お父さんに持つ自分を想像すると、ほんの少しわくわくしてしまう自分も確かにいるのだ。  次にただいまおじさんが来たら、言ってみようかな。  おかえり、って。  でも、ただいまおじさんはあれきり二度と家に現れなくて。  なのに、なぜか新しいお父さんだけが僕にできる。
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