ただいまおじさんとぼく

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 その夜、ハンドルを握るお母さんはなぜか終始無言だった。  車は、高速道路を走り始めてすでに二時間ぐらい過ぎていた。いくつもの山や町を超えて、それでも車は高速を降りる気配がない。一体どこに行くんだろう、そんなわくわくは微塵もなかった。僕には、このドライブの目的がなぜか最初からわかっていた。  やがてお母さんは、聞いたことのない名前のインターで高速を降りると、それからさらに三十分ほど車を走らせ、これまた見慣れない建物の前でようやくエンジンを止めた。 「あのね」  そこでお母さんは大きく深呼吸すると、僕の方は見ようともせずに言った。 「私、頑張ったんだからね一応。あんたが、あの人に愛してもらえるように頑張ったんだから。……あんたが悪いんだからね。あんた、ちっとも愛される努力しなかったでしょ」  最初、お母さんが何の話をしているのか僕にはわからなかった。やがてそれが、新しいお父さんに対する僕の態度について言っているのだと気付いた後も、どうして僕が叱られなきゃいけないのか、やっぱり理解できなかった。  僕だって、僕なりに懸命に努力したのに。 「あの人ね、もう限界だって。あんたのお父さんとしてやってく自信がないんだって。いくら頑張ってもちっとも懐かないしって」 「えっ、でもーー」  それを言えば、あの人だって。そう反論しかけて、でも僕は諦める。  ああそうか。この人はもう僕の家族じゃないんだ。あの人の言い分だけ一方的に聞き入れて、僕には味方するそぶりもない。血の繋がりも、それに、これまでお母さんと二人で暮らしてきた時間も、お母さんが手に入れた新しい幸せと比べれば取るに足らないものだったのだ。 「降りて」 「えっ? ……うん」  言われたとおり、僕は車を降りる。門扉のプレートには、ごちゃごちゃと長い漢字の列が書かれていて、その中で辛うじて、『かたぎり園』と書かれているのが小学生の僕にも読める。ただ、ここがどういう場所かはプレートが読めなくてもすぐにわかった。 「わかってると思うけど、黙ってんのよ。私らのこと」  それだけを言い残すと、お母さんは車のドアを閉じ、逃げるように走り去っていった。見知らぬ土地に一人残された僕は、泣くこともできないまま傍らにある花壇のブロックにそっと腰を下ろした。  寂しかった。  悲しみの方は、意外と少なかった。今更、あのマンションでの暮らしを失うことは惜しくも何ともなかったし、むしろ気楽ですらあった。ただ……それでも寂しかったのだ。  世界はこんなにも広いのにーー世界には、こんなにもたくさん家が溢れているのに、でも、僕が家と呼べる場所はどこにもない。ただいま、と言える場所はどこにも。  あの人もそうだったんだろうか。  前のアパートに住んでいた時の、あの奇妙な出来事を思い出す。ただいま、と言いながら他人の家に勝手に上がり込む謎のおじさん。今なら、あのおじさんの気持ちがわかる気がした。あの人はただ、帰る場所が欲しかったのだ。ただいま、と言える場所が。 「じゃあ、帰るかい? 一緒に」 「……えっ」  不意にかけられた声にはっとなる。見ると、いつしか僕の傍らに見慣れないおじさんが立っていた。上等そうなスーツ。ただ顔立ちは、頭上から差す街灯の陰に埋もれてよくわからない。  それでも、僕に注ぐ視線の優しさだけはなぜかはっきりとわかった。 「さ、帰ろうか」  その声に、僕は確かに聞き覚えがあった。まさか、いやでも、と途方に暮れる僕に、おじさんはそっと手を差し伸べる。 「帰ろう」 「うん」  気付くと、僕は頷いていた。立ち上がり、おじさんの手を取る。握り返すおじさんの握力は優しくて、この人と一緒ならもう大丈夫だ、と思った。  この人と一緒なら、きっと帰れる。  僕が帰るべき場所。帰ってもいい場所。ただいまと言えばおかえりと返ってくる、そんな温かな場所へ。僕らの家へ。
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