04章『喧騒下のアブダクテッドな天使様』〈承〉

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04章『喧騒下のアブダクテッドな天使様』〈承〉

***  ——そうだ、いつもの様にするんだ。 「アッシュ! ダメよ! まだ動いちゃ……!」  ——いつもと同じ。それにはまず、『観察』から入る。 「いい!? 血止めをしたばかりだから無理なことはしたらダメ。そうでなくても無茶して出血量が多いのだから……」  ——観察。  俺たちはピエロ達に襲われた……襲われたのだ。……くそっ、頭が働かない……だが、考えなきゃならない………… 「……アッシュ……ねぇ、アッシュ! 嘘よね……あなたが……戻ってきてくれないと」  ——分析。  ピエロ、それに黒マントの動きは計画されたものだ。当初は。降りてきた立ち位置、それに誘い込まれたあの場所は……。  どうして? どこから? どうやって? 「……お願い……アッシュ…………私……あなたがいないと……」  ——推定。  奴等は罠を張っていた。恐らく。全ては、あの最初の邂逅の時に。  ふと、世界に光がさした。 「……ここは……?」  目に入ったのは白い天井。薬品の匂いと包帯のギシギシ音が耳に残る。 「アッシュ!? 目が覚めたの!? 馬鹿……なんて無茶するのよ……!」  レイチェルが泣いていた。……コイツの涙を見るのはいつぶりなんだろうなぁ。 「アシュレイお兄ちゃん、良かったよぉ。アシュレイお兄ちゃんまでいなくなったら、ミリーは、ミリーは……ウワァァーーン」 「……アシュ氏、大丈夫か? 大分、血を流してたのでな。……僕もあんなに流してると気づかず、すまんかった……」  俺の周りにはレイチェルだけでなく、ミリー、そしてバルもいた。  ゆっくりと辺りを見回す。ここは、 「救護室だよ。君はそこのバル君に運び込まれたんだ。血だらけでね」  部屋の入り口に立っていたのはユリウスだった。険しい表情で言葉を続ける。 「最初に、サファナ判事から憲兵隊に連絡があった。『誘拐事件が発生した』と。その直後に君が運ばれてきたんだ。……今、彼女は憲兵達の総員で捜索している最中だ」  彼女……それは、リアンか。 「……まだ、見つからないの。でも、クロノクル市の全憲兵隊がリアンちゃんの捜索にあたっているわ。あのピエロもきっと捕まる」  レイチェルが震える目で俺を見つめながら話す。それはどちらかと言うと俺に、というよりも自分自身に向けたような言葉だった。 「……悪いけど、僕はあまり期待できないと思ってるんだな」  その言葉に現実を突きつけたのはバルだった。 「……それはどういう意味かな? 我らが憲兵隊が総力をあげて捜索しているのだ。……その力を信じられない、と?」 「……そだなー、信じられないなー。事件が起こらないように見張っていたはずなのに、その警戒網の穴を破られた憲兵隊にはねー」 「な!?」  瞬間、バルとユリウスの間で見えない火花が散る。 「だから、僕は憲兵隊を信じられない」  その中で、バルは断言した。  ユリウスは、いやレイチェルも無言だった。  重苦しい空気だけが場を支配した。 「じゃぁ、アシュ氏の無事も確認したし、僕は行くぞな」  踵を返し、部屋から出ようとするバルに、 「だが、君も、『彼女から目を離してしまった』んだよ」  ユリウスの余計な一言が刺激した。  「!?」 「ダメよ! ……ユークリッド少尉、謝罪しなさい。その言葉は余計よ」  一瞬、バルの殺気が爆発しかけた瞬間、レイチェルの言葉が抑えた。 「……そうだな、今のは自分の不徳だ。済まない。心から謝罪しよう」 「……いいさ。事実はその通りなんだからさー」  バルは自嘲的に笑って、そして部屋=救護室から出て行った。  取り敢えず、俺は身を起こす。  肩から右腕まで手首付近まで包帯でぎちぎちに巻かれている。身体全体がフワフワしてなんだか力が入らない。 「君は自覚してないかもしれないが、大量の出血をしてるんだよ。……傷を受けてからも大分、無理したみたいだね……」  少尉が呆れたように解説してくれた。  ようは、そこそこ大きな傷で、ジッとしてればまだ何とかなったものを、無茶して傷口をぶん回したからそこから血が流れ過ぎた、と言いたいらしい。 「全く、無茶だよ」  心底、呆れられた。  が、そんな事はどうでもいい。 「申し訳ないが、俺に言えるものなら教えて欲しい。捜査状況はどうなっているのかを」 「確かに、誘拐犯の内、君たちが気絶させた2人はこちらで確保している……しかし、君は憲兵隊内部の情報を欲しているのか?」  殺気を帯びた視線が俺を貫く。だが、悪いがこの程度で押し止まる余裕は俺には無い。 「……ユークリッド少尉、彼は有能よ。私が保証する」 「申し訳ありませんが、サファナ判事が常に噂する彼だとしても、何も実証されるものが無い以上、自分としては機密情報の共有化など許可出来ません」  いや、別に機密情報を共有しろとは言っとらんだろ、コイツ……  ユリウスと視線がぶつかり合う。 「クロノクル市法・憲兵組織法第23条その2、民間人への内部情報の寄与は個別案件における申請書による許可、もしくは憲兵分隊長以上の許可及び判事長以上の許可をもって……」 「わかったわよ、少尉。……私が、悪かったわ」 「いえ、サファナ判事の提案には申し訳無いのですが……」  あのレイチェルが折れた。折れざるを得なかった。  …………。  皆が押し黙る中、ミリーの啜り泣く声だけが響くのだった。  ミリーを乗せた辻馬車が走っていくのを見守って、俺はレイチェルに言う。 「レイチェル、すまないが手伝って欲しい」 「……はぁ、もう。こんな時くらいそんな改まらずに私を頼ってよ、本当」  ……なんで、ちゃんと丁寧に頼んだはずなのに呆れられるんだ。わからん。  ミリーには、念の為、憲兵が1名、一緒について家まで連れ帰ってくれる事となった。  ミリー自身は俺たちが一緒に帰らないことに不安げな表情も浮かべたが、直後、 『うん、リアンちゃんをお願いするね』  と、俺たちに全てを託すのだった。  ボボォーー!  遠くで汽笛がこだまする。 「それで……手伝うけど、私は何を手伝えばいいのかしら?」  そう、これから俺がすること——俺が出来ることは。  リアンの捜索自体は全憲兵隊が動いている。……恐らくだが、先に姿を消したバルも心当たりを探しているのだろう。  俺もそれに加わる、という手もあるのだが、俺には何も手がかりがない。  会ったばかりのリアンに関しても、肝心のヤツ——道化(ピエロ)に関しても。  例の黒マント達は憲兵達が確保しているが、そこからの情報もこちらにはないとなると、闇雲に探し回ってもただの時間の無駄になる。  それならば、 「そうだな。まずは現場の再確認だ。——うッ」 「……ちょっと、無理しないでよ! アッシュ、今は全然、体力無いんだから。ほんと、無茶ばっかり……」  歩き出そうとした瞬間、ふらついた俺をレイチェルが支えてくれる。  女性に、それも妹分に支えられる情けない状況だが、そんなことは今は言ってられない。 「……もう。いいから肩を貸しなさい。ね?」 「……すまん」  恥も外聞もなく、レイチェルに肩を貸してもらいつつ目的の場所に向かう。  そしていつもの癖で時間を確認する。  時刻は懐中時計で16:10。  そこは、最初に例の道化(ピエロ)と再会した、少し開かれた四つ辻の路地。  そこは既に数人の憲兵達が立っており、現場は封鎖されていた。 「どうするの? アッシュ?」  レイチェルが問う。  彼らから状況を聞くことは不可だ。だが、 「彼らに、『判事として捜査に来た。協力者と共に。君達の邪魔はしないので現地の確認をさせて欲しい』と伝えてくれないか」 「……!?」  傍らでレイチェルが息を呑む。  そうだ。これは、レイチェルの判事としての捜査権を使わせてもらう方法。それが如何に彼女の迷惑になってしまうかもしれなくても。  今の俺にはもはや躊躇してる余裕は無かった。  そう。これなら憲兵たちの捜査状況はわからずともこちらで独自に捜査が可能な筈。 「……流石ね、アッシュ」 「ああ?」 「ううん、そんな発想、私には無かった。ありがと」  そう言って俺に微笑みかけ、彼女は俺が言った通りの言葉を憲兵たちに伝える。判事の証である、レイチェルの『黒鷲の紋章』を確認した彼らは敬礼して俺たちを通さざるを得なかった。  四つ辻の十字路。  辺りで警戒体制を取っている憲兵達が『何をしてるんだ?』と好奇の目を向けているのを自覚しながら付近を確認する。  そう。  この場で、逃げようとしたリアンは不意に空中へと高く飛ばされヤツ=ピエロに捕まることとなったのだ。  あの空中浮遊はどうなってる……。  原理は一体……まさか魔法なんて御伽話じゃあるまい。何か仕掛けがあるはずなんだ。  だめだ。頭の中でいくつか想定しようとするも何も浮かばない。あの現象がどうなってるのかさっぱりわからない。  でも、あれがわからないとヤツ自身の正体にも辿りつかない……気がする。  あれはショーの時も同じだった。一体……  ふと、脳裏にあの時の様子が浮かぶ……そう言えば…… 「レイチェル、そう言えばあのピエロの手品の種、全部わかってそうだったな?」 「え? まぁ〜手品に関しては色々と本で読んでたからねぇ……フフッ」  微妙に勝ち誇った感じなのは取り敢えず傍に置いておく。 「例の空中浮遊。原理はわかるか?」 「うーん、推測で良いのなら、になるけど……」  レイチェルが言うには細い、そう目にほとんど見えにくいほどの極細のワイヤーによるものではないか、と。ワイヤーアクションと言うらしい。  ただ、一本ではリアンの自重を支えられず切れてしまうので、何本も用意して、と。 「でも、何本も束ねてしまうと今度は逆にそれが濃くなって見えてしまうと思うわ。なので色んな方向から互いに重ならないようにしてると思うの」 「なるほど」  パッと見は分からないほど細いワイヤーを四方八方に張り巡らせて、か。  そうなると、 「では、走りながらや何かの時に咄嗟に空中浮遊をしたりは」 「出来ないはず。あらかじめ、キチンと下準備しておいた所でないと使えないと思うわ」  なるほど。それならば恐らく……  周囲を、目を皿のようにして探る。 「ちょ、ちょっとどうしたのよ、アッシュ!? 何してるのよ?」  地面に四つん這いになって、舐めるように僅かでも異変がないかを見ていく。  痛ぅッ……  右腕に激痛が走る。見ると白い包帯にジワジワと赤い血が滲み出ていた。 「馬鹿! ……また無茶して。私が力を貸すって言ってるでしょ?」 「悪い……」  再び、レイチェルに支えてもらいながら地面を探す。  そう、何か手がかりがあれば…… 「ん?」  石畳の路地。その石と石の間でキラっと光るものがあった。  もしかして……  つまみ上げるとそれは細く長い…… 「これだな」 「ええ、そうね」  それはワイヤーの切れ端だった。  俺たちがワイヤーの切れ端をつまみ上げたことを知った周囲の憲兵たちは騒めきたち、レイチェルへ『判事殿、すみませんが、それは証拠品としてこちらで預らせてもらえませんか』と申し出てきた。  レイチェルが、俺に『どうするの?』と視線で問うてきたが元より証拠物なんてものは俺にとって不要。  俺の確認を見たレイチェルはワイヤーの切れ端を憲兵たちに渡し、俺たちは次の現場へと移っていた。 「ここは……?」  そうか、よく考えればレイチェルはここには来ていなかった。  例の丁字路の左に曲がった先。  下り坂の先の袋小路。  そう。ここで俺とバルは、ピエロとリアンを見失った。 「ここで? 行き止まりじゃない。こんな所でどうやって……」  レイチェルは戸惑っているが、俺は既に今までの分析からのある推定があった。  あとはその事実を『観察』して確認すれば。  またしても周囲を封鎖する憲兵たちの好奇の視線を浴びつつ、確認する。 「俺たちがヤツの跡を追ってきたとき、この袋小路に既にヤツの姿は無かった」 「それは聞いたわ。……バル君からも」 「だが、ここには隠れる場所も潜り抜けれる扉もない」 「そうね……それに隠し扉があれば憲兵達が見つけている筈だわ」  そうだ。で、あるならば、 「それ以外の方法でヤツは姿を消した筈なんだ」 「だからその、それ以外の方法って……何なのよ?」  ゆっくり、再び地面を舐めるように確認していく。手がかりを見落とさないように。  先と同じく、地を這うように僅かな異常も見落とさぬよう、石畳の道を隅々まで確認する。  と、地面にキラリと光るものがあった。  レイチェルに肩を借りながら何とか、左手を伸ばす。その指先にあるのは…… 「え!? ワイヤー!?」 「ああ、これなら……例の空中浮遊なら高い塀も乗り越えられる」 「……!? そういうこと!?」  そう。あれをリアンに、ではない、自分にも応用すれば。  あらかじめ、仕込んでおいて、角を曲がったその瞬間、その位置で発動させれば……  角度によって辛うじて光を反射して存在を示すワイヤーの切れ端が俺の手の中にあった。  その後の周囲の憲兵たちのざわめきも先程以上だった。  なにせ、この袋小路からの犯人の脱出方が判明したのだ。  そして、やはり、拾い上げたコレ——細いワイヤーの切れ端を『証拠品として憲兵隊の方で預かりたい』、と。 「アッシュ?」  再度、俺に確認するレイチェル。  俺は頷くが、今度はある条件を彼らに突き付けることをお願いする。 「ええ。これはあなた方の証拠として抑えてもらっていいわ。但し、」  ——この周囲の建物への捜査を認めること。  この路地裏周囲では定住してる住民はほとんどいなかった。浮浪者や何かしら訳アリの人々。  そんな者達の取り敢えずの住処だったようだが、憲兵達の捜査が入ると彼等は一瞬で何処かに消えてしまっている。  その空き家への捜査がこちらの要求事項だった。  俺の出した条件をレイチェルが伝える。 「うーむ……」  現場のリーダーなのであろう、髭面の如何にも武人というオッサンは、腕を組んで唸り声を漏らしていた。 「判事殿にも捜査権があるのは承知していますがねぇ……」  時折、組んだ腕の上で人差し指をイライラと揺り動かす。  そして、チラッと、レイチェルの手の中の、例のワイヤーに目を向ける。 「我々では分からなかった犯人の脱出方を見つけたのは流石、判事殿のお力、とは思うのですが……なにぶん、物事には筋、というのがありますのでねぇ」  どーも、まずい流れだ。  俺たちが横入りして、あっさり証拠品を見つけてしまったのが、彼のプライドをいたく傷つけてしまったらしい。  あっさり通ると思っていた条件をえらく渋る。  最悪、レイチェルの判事としての捜査権で強行することも出来るのだろうが、その場合、ここでの遺恨がどう影響するか。  俺よりも、これからも憲兵隊と仕事で協力する必要があるレイチェルの立場が冷遇されてしまうようなことは、絶対にあってはならない。  しかし、同時に時間も限りがある。  とっくに陽は傾き、夕暮れの赤に染まりつつあった。  祭りの喧騒は風に乗って時折り聞こえるも、この路地には遠く届かない。  何より、このまま陽が落ちてしまえば灯りのないここは真っ暗になってしまう。  ランタン片手に探すことも可能は可能だが、どう考えても効率が悪い。 「何故です!? これは事件を解決する為にも大事なことなんですよ。どうして私たちが捜査してはいけないんです!?」 「いやいや、判事殿が捜査することを止めている訳ではないのですよ。ただ、然るべき筋、を通して頂かないと、我々も、ね……」 「……では、あなたの言う『筋』とは一体、どうすれば良いのですか?」 「そうですなぁ……我々も組織であるのですから。分隊長からの許可を頂かないと、こちらも現場だけで判断とはならんのですよ。判事殿には申し訳ないのですが」 「くっ……」  分隊長クラスの許可。  今からそれを取りに街中へ戻ってここに帰ってきた時には既にここらはもう真っ暗だろう。明らかな嫌がらせだ。  レイチェルもそれに気づいて彼女には珍しく苦々しい表情を見せている。  どうする。どうすれば良い…… 「では、自分が仮に許可を出せばサファナ判事達が屋内を捜査しても良い、と認める訳なのだな」  その声は俺たちの背後からした。  誰だ!?  振り向いた俺の視界に入ったのは、 「ユークリッド少尉!?」 「申し訳ありません、サファナ判事。このようなつまらない嫌がらせをするとは。後で注意しておきますゆえ」  怒りの火を目に灯したユリウスだった。  途端、髭面は気不味そうに、頭をかきながら、 「これはこれは分隊長殿。いやぁ、ちょっと現場のものだけでは判断がつかなくってですな。わざわざこんな所まで御足労です」 「……新たな証拠が出た、と報告を受けてな。現場確認で来てみたら」  視線を向けられ、ビクッとする髭面。 「……まぁ、少尉が来てくれて私たちも助かったんだし。この人も、そんな悪気はなかったのかもしれないわ。そうよね?」 「あ? あぁ、そうなんですよ、分隊長。我々もどうしたら、と悩んでいた所に分隊長に来て頂いて本当に助かったというか、なんというか……」  あまりの視線の冷たさにレイチェルが庇う始末とは……なんとも。 「……もう良い」  あっちに行け、とばかりにユリウスが手を振ると、これ幸いとばかりに髭面はスタコラサッサとその場を離れるのだった。  俺たちだけになった瞬間、ユリウスはやり取りに何も関与せず無言を決め込んでいた俺をジィーっと見てきた。  ……なんだってんだよ、本当に。 「……我々が見つけられなかった証拠品を発見し、あまつさえ犯人の脱出方法まで見つけた、ということか」  何故か俺に肩を貸してるレイチェルが、隣でフフーンと得意げに鼻を鳴らす。 「ほら! 私が言った通りなんだから」  何が言った通りなんだよ、本当に。  ただ、そんなことより、 「じゃあ、ここらの空き家の捜索をしても良いんだな?」 「……ああ。男に二言は無い」  そう少尉は俺たちに確約するのだった。  もう陽はほとんど地平線に落ちようとしていた。  周囲の空き家の出入り口は例の袋小路にはなく、グルッと回らなければならない。その数も距離もかなりのものだが、ワイヤーの落ちていた位置から、その全てを探すのではなく、大体のあたりはつけていた。  その内の一軒の家に立ち入る。  壁も天井も、ほぼ崩れ落ちており、夕暮れ時の空が下から良く見える。  何やら調理場らしき竈などの跡にボロボロのカウンター、へし折れたテーブルの数々。椅子の残骸らしきものが転がっている。 「……ここは10年前までは小さな酒場だったそうだ。夫婦で切り盛りしていたそうだが、どんどん経営が傾き10年前に夜逃げして以来、ここはこのまま、らしい」  なぜか俺たちに付いてくるユリウスが解説してくれる。  流石、役所の資料にもアクセスし放題なだけあって見ただけじゃ分かりっこないことまで教えてくれて、ありがとーですよ、クソ。 「? 少尉が教えてくれたのになんで不機嫌になるのよ、アッシュ?」  いや、別に。  関係ないのに俺らについてくるのが気に入らないとかそんな理由では…… 「……リアンの捜索はどうなってるんだよ」 「言ったろう? 憲兵隊の内部情報は言えんと」  俺らは関係者だぞ。ったく。  奥にあった崩れかけのドアをくぐる。  そこにあったのは、これまた同じくボロボロに崩れ果てた酒樽の数々。 「蔵、だったのね……」  ごく僅かに無事な酒樽もあり、蓋を開けるも当然、中身は何も無い。  10年前、だからなぁ。  壁も天井も崩れ落ちつつあり、蔵であることを示すのはこれら酒樽の残骸ぐらい。  その更に奥の扉を開けて出る。 「庭、かしら……」  そこはちょっとした広場だった。レイチェルの言うように庭だったのだろうが、雑草が伸び放題に伸びている。  ここにも幾つか酒樽の残骸が放置されており、どうもこの庭のある勝手口からも蔵に酒樽を運べる構造になっていたらしい。  ほぼ陽は落ちきっており、俺たちの影が長く伸びていた。  と、そこに別の憲兵が走ってくる。 「分隊長殿! ご報告が!」 「なんだ? ……うーん……」  チラッと俺たちを見てから、伝令と思しき憲兵と庭の端に移動してこそこそと報告を受ける。  ……そんな聞き耳なんか立てたりせんわい。 「やっぱり、なんかアッシュって少尉に対して不機嫌よねー。何かあったの?」 「別に。さっき初対面で何もあるわけないだろ」 「それもその筈なのよね……」  右腕の痛みがじんわりしてくる。  機嫌が悪いのはこの痛みのせいだな、きっと。  と、その時、 「馬鹿なッ! 誰が許可したのだ!? 港湾局が認めたのか!」  辺りに響くほどの大声でユリウスが叫んだ。  機密情報だったんじゃないのかよ……という突っ込みが出来るレベルではない。  明らかに真っ青になって目の前を凝視していた。 「……」  そして、こちらに来るとそっとレイチェルを招く。 「え? うーん……」  俺の支えから離れることを少し悩むも、俺が大丈夫だから、と合図するとしぶしぶユリウスの元で何やら話し始める。  その間、俺はまた地面を端から端へとじっくり調べていく。  雑草だらけの中に酒樽の破片であろう木片が散らばり、そして……一部、雑草が何かで折れている部分がある。  この跡は? 「ええ!? アルサルトの蒸気船が出航するのを誰が許可したのよ! 容疑者の船をそのまま見過ごしたの!?」 「サファナ判事、声が大きい!」 「でも、それって……それって……」  あのレイチェルがひどく動揺している。滅多なことで動じないあの、レイチェルが?  レイチェルは俺の方を見て、どう口にするか答えあぐね、そして意を決して口を開く。 「アッシュ、聞いて欲しいの」 「サファナ判事! 彼は部外者です!」 「彼は関係者よ! 私もね! 聞いてもらう必要があるわ」 「……わかりました」  ユリウスが不承不承、頷く。 「今、入った報告によると大商人アルサルトの持つ蒸気船がつい先ほど、港を出航したらしいの」  蒸気船。まだ世界でも僅かしか無い、蒸気機関を推力に利用した船か。  ミリーが見に行きたい、と言っていたヤツだ。  そう言えば、ここに来る前に何やら汽笛のようなものを聞いた気がする。あれは出港前の合図のやつか?  だが、それがどうしたと言うのだ。その船が出航することになんの意味がある? 「問題は、その船の持ち主なのよ。アルサルト・リーベラ。大国、カルタ帝国お抱えの大商人。問題は、彼はこのクロノクル市で奴隷売買という違法行為を行った可能性があるのよ」  奴隷?  なんだ、それは?  言葉としては知っている。だが、今までの俺たちの日常に無い言葉。 「このクロノクル市では当然、奴隷は違法よ。でもまだ、この世界では奴隷が合法の国もある。……そして彼はその違法な奴隷売買をこのクロノクル市で行った嫌疑が掛けられて今、勾留中なの」  勾留中?  しかし、それでは…… 「そうだ。持ち主が勾留中にも関わらず、船は出航した」  ユリウスはその事実を俺に明かした。  頭の中で今まで全くバラバラのキーワードがそれぞれ、今、意味を持って繋がろうとしつつある。  だが、これは、繋がった先にあるのは…… 「……もう一つ、悪い話があるの」  鎮痛な面持ちでレイチェルは、そっと口を開いた。言うべきか言わざるべきかを悩みつつ、それでも彼女は俺に、その事実を伝える。 「彼は、その中で、特に、子供の奴隷を探してる可能性があるの」  子供……なんだ、それは…… 「天使のような子を……」  『天使』……『銀髪』と『黄金眼』の聖天使オフィエル……  リアン…… 「だが、港へ通じる大通りは自分の部隊が警備を担当していた。変装して配置していた担当者も含めて、子供やそれに似た物を背中に抱えて通ったヤツはいない。その報告は無い!」  あれ程、俺に情報を伝えたがらなかったユリウスが、必死に『大丈夫だ』と話す。  いや……しかし……これは、もう…… 「?? どうしたの、アッシュ?」  これは……もう……どうにも……  俺は震える指先で地面を指す。ようやく、痛みがおさまりつつある右手で。  その地面には2本の線のような跡があった。 「これは……何なの?」 「轍、だ、これは。恐らく馬車の」  俺の言葉に2人は弾かれたように顔をあげる。 「ここで、リアンは酒樽に入れられて、馬車で港に運ばれていったんだ」  レイチェルが喉を抑えて足元から崩れ落ちる。見開いた目にはこれまでに俺が見たこともないほどの不安と恐怖に彩られていた。  天才少女の強さが崩れ落ちた瞬間だった。  そう。  ——それが、もう戻らない事実だった。 ⭐︎⭐︎⭐︎
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