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千秋はりんごを入れたビニール袋を、さらに紙袋に入れて持ってきた。出会い頭に受け取ろうとしたが「重いから」と言ってきびすを返し、居酒屋の中に入った。
千秋は何も変わらなかった。いつものように自分が務めている広告代理店のクライアントが無茶ぶりをしてきた話や、上司が金曜日の夕方に「月曜日までに」と言って仕事を任せてくることを話し、今回ばかりは断ったのだと吹っ切れたような笑顔で話していた。
そうした彼の優しさに甘えている罪悪感が、どうしてこのままでいたらいけないのだろうという戸惑いとマーブル状に混ざり合う。もしも私が交際を断れば、この関係は終わってしまうだろう。千秋と会えなくなるのは嫌だった。
「今日、会わないほうがよかった?」
千秋がぽつりと言った。
「なんで」
「不二、元気ないから。やっぱり悩ませちゃってるかと思って」
視線をそらして、千秋は壁に貼ってあるビールのポスターを見るふりをしながら、ジョッキを傾けた。
「……悩んではいるけど、千秋のことだけじゃないよ」
私は少し意地になって言った。考えていることを言い当てられた恥ずかしさは、誰のせいでこんなに悩んでいると思っているのかという怒りに転じた。
「今度は何に悩んでんの?」
「林先生のこと。先生、生涯勉強って感じの人だったじゃない? だから、残念だっただろうなって思って」
「ああ、それ?」
私の頭を数日占拠している問題を、千秋ははにかみながら受け止めた。
「林先生、亡くなる前に言ってたらしいよ。『これでようやく死について学べるんだ』ってさ」
途端に、りんごが落ちた。
千秋が隣の席に置いていた紙袋の中で、りんごの小山が崩れたらしかった。転がる青りんごを、千秋は座ったまま腰を折って拾い、困ったような顔をして目の高さまで持ち上げた。
「どうしよう、これだけ俺が持って帰ろうか? 拭いてまた戻していいならそうするけど……」
私は答えなかった。
「不二?」
「あ……えっと、いいよ、どうせ食べる前に洗うしそのまま戻しといて」
かろうじてそう答えた後、私はあえて酒ではなく水を飲んだ。
心臓がうるさく脈打っている。
『これでようやく死について学べるんだ』
きっと林先生にとって、死は終わりではなく、生の延長だった。
「なんで千秋が先生の言葉を知ってるの?」
「友達が先生のゼミ生でさ、お見舞いに行ったんだって。その時に先生、ベッドの上でそんなふうに笑いながら言ってたらしい。先生はヴェーダが専門だから、輪廻の思想とかもくわしくて、だからそう言ったんじゃないかって」
そうなんだ、と当たり障りのない返しをしながら、私は憑き物が落ちたような、いきなり視界がさっと広がったような気持ちになっていた。
私はどうして死を終わりだと思っていたのだろう。本当は何もわかってはいないのに、理屈をこねくり回して、わかったような気になっていただけだった。
私はまだ生きている。明日死ぬかのように。
これからも学ぶ。永遠に生きるかのように。
「実家から送られてきたの、青りんごなの?」
「そう。ちょっと珍しいよな」
「初めて食べるかも」
「青いのも美味いよ。味がちょっと違って」
また崩れないように、袋の中でりんごの山を調整していた千秋が、ふとこちらを見て目が合った。
私の鼓動は収まるどころか、さらに高鳴る。これから言うべきことを意識するだけで、舌が上顎に貼りついて、一生はがれないような気がしてくる。
「千秋、こないだの話なんだけど」
耳の奥で鳴る心音で、自分の声が聞こえない。
私もまだ青い。
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