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《八月二十八日・ゼロメートル》
この日は休日で何もしなかった。
この旅、唯一にして水深ゼロメートル。つまり、海面にいる一日だったのだ。
俺は潜航服から久しぶりに私服へ着替え、ハッチの外へでる。ホテルの椅子を置く。腰かけて両手を広げて伸びをした。
雲一つない晴天に見渡す限りの青い海。穏やかな波の音が繰り返される。
エリンが楽器ケースを持ってきた。
椅子に座ると楽器を取りだす。「ヴァイオリンか?」と俺が尋ねると、「フィドルよ」と返してきた。
「同じものだけど、アイリッシュの民族音楽とかで使われるんだよ」
Ⅾが説明を加えてくれた。長い手に赤ワインのボトルが握られている。
「おい。ホテル内にはアルコールは無かったと言っていただろ」
俺が咎めると、Dはふふんっと笑う。
「これはオレのボルドーワインだ。フランス人の血は赤ワインでできているからな。無いと体調がおかしくなる。だから、家から一本持ってきた。
部屋でちびちび飲んでいたんだけど、あと三日で調査が終わるだろ。前祝いだ。皆で空にしようぜ」
そういってカップに注いで、渡してくる。
「後でチーズも持ってこよう。ちなみにアメリカ産のワインは邪道だからな。カリフォルニアワインなどは認めないぞ」
俺は分かった分かったと話を断ちきり、「乾杯」と杯をあげる。ルビー色の飲料を口にとおすと、熟成された果実の香りが鼻にぬけた。確かに美味い。
エリンも一口飲んで、演奏を始めた。
フィドルの弦から伸びやかな音が流れていく。
海に向かって高音から低音まで広がる。
クラシックヴァイオリンに比べると洗練さはないかもしれないが、情緒豊かな音色だ。
アイルランドのバーに人々が楽器を持ちよって、演奏する様子が目にうかぶ。事前に曲目を決めるわけでなく、その場で出会った人々の即興。
ギネスビールを木製テーブルに乗せ、老若男女関係なく音を紡いでいく。楽器のない者は足を踏み鳴らし、テーブルを叩く。
──そんな牧歌的な情景を思わせる曲だった。
酒に弱い俺はワインで真っ赤になりながら、音楽に浸る。
Ⅾなどは目をつむり、想像の指揮棒をふるっている。頭を揺らしてリズムまでとっていた。
その微笑ましい姿を見ていると、パートナーが彼らで良かったと思う。この二人とだから何事もなく調査を進められた。性格は似ずとも、同じ熱量の目線を海に向けていたのだろう。
今後もずっとこの三人で作業ができたら……どれだけ幸せだろうか。
残りの三日間、ホテルは水深二百メートルを進む。
海洋生物がそれなりにいて、他の海中ホテルでは真似できない水深。ホテルの宿泊客が好みそうな場所。
そこで記録を取っておしまい。
海で過ごす日々が終わる。
だが、一か月の長い旅。
そんなすんなりとは終わらなかった。
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