4 鈴木 隆の海中記録

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《八月二十八日・ゼロメートル》  この日は休日で何もしなかった。  この旅、唯一にして水深ゼロメートル。つまり、海面にいる一日だったのだ。  俺は潜航服から久しぶりに私服へ着替え、ハッチの外へでる。ホテルの椅子を置く。腰かけて両手を広げて伸びをした。  雲一つない晴天に見渡す限りの青い海。穏やかな波の音が繰り返される。  エリンが楽器ケースを持ってきた。  椅子に座ると楽器を取りだす。「ヴァイオリンか?」と俺が尋ねると、「フィドルよ」と返してきた。 「同じものだけど、アイリッシュの民族音楽とかで使われるんだよ」  Ⅾが説明を加えてくれた。長い手に赤ワインのボトルが握られている。 「おい。ホテル内にはアルコールは無かったと言っていただろ」  俺が咎めると、Dはふふんっと笑う。 「これはオレのボルドーワインだ。フランス人の血は赤ワインでできているからな。無いと体調がおかしくなる。だから、家から一本持ってきた。 部屋でちびちび飲んでいたんだけど、あと三日で調査が終わるだろ。前祝いだ。皆で空にしようぜ」  そういってカップに注いで、渡してくる。 「後でチーズも持ってこよう。ちなみにアメリカ産のワインは邪道だからな。カリフォルニアワインなどは認めないぞ」  俺は分かった分かったと話を断ちきり、「乾杯」と杯をあげる。ルビー色の飲料を口にとおすと、熟成された果実の香りが鼻にぬけた。確かに美味い。    エリンも一口飲んで、演奏を始めた。  フィドルの弦から伸びやかな音が流れていく。  海に向かって高音から低音まで広がる。  クラシックヴァイオリンに比べると洗練さはないかもしれないが、情緒豊かな音色だ。  アイルランドのバーに人々が楽器を持ちよって、演奏する様子が目にうかぶ。事前に曲目を決めるわけでなく、その場で出会った人々の即興。  ギネスビールを木製テーブルに乗せ、老若男女関係なく音を紡いでいく。楽器のない者は足を踏み鳴らし、テーブルを叩く。  ──そんな牧歌的な情景を思わせる曲だった。  酒に弱い俺はワインで真っ赤になりながら、音楽に浸る。  Ⅾなどは目をつむり、想像の指揮棒をふるっている。頭を揺らしてリズムまでとっていた。  その微笑ましい姿を見ていると、パートナーが彼らで良かったと思う。この二人とだから何事もなく調査を進められた。性格は似ずとも、同じ熱量の目線を海に向けていたのだろう。  今後もずっとこの三人で作業ができたら……どれだけ幸せだろうか。  残りの三日間、ホテルは水深二百メートルを進む。  海洋生物がそれなりにいて、他の海中ホテルでは真似できない水深。ホテルの宿泊客が好みそうな場所。  そこで記録を取っておしまい。  海で過ごす日々が終わる。  だが、一か月の長い旅。  そんなすんなりとは終わらなかった。
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