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俺のパソコン画面を見ようと、稲田さんの顔が間近にきた。
揺れるショートヘアから爽やかな香りが漂う。
研究室でいつも一緒にいるのにも関わらず、接近されると心臓がすこし跳ねてしまう。海洋科学部は七割男性の世界だからか、いまだ慣れない。
「鈴木先生、面白いメールですね。海中のホテルに一か月間住むだけで、三千万円。ほかの人がリタイヤしたら最大で九千万円ももらえるんだ。
海中ホテルって最大で水深二十メートルくらいのイメージですけど、一万メートルもいけるのかな。水圧一トンだけど……。
これでもかっていうくらい立派な詐欺メールですね。クリックしないでくださいよ」
「──そうだよな。分かりやすく騙そうとしてくるから驚いちゃって。最近だと宅急便を装ったり、有名な通販サイトを真似たり、詐欺も巧妙になってきているのに。
でも、でもさ。俺の研究分野は、北西太平洋の海中生物でしょ。メダイとかシギウナギとかね。報酬も何十億とかではないのが、ちょっぴり信憑性あるよね?」
「いえ。欠片もありません」
稲田さんが画面から俺に顔を向け、スパッと断言する。
「いや……ピンポイントで、それを専門にしている俺に連絡がきているしさ」
「そんなもの大学のホームページを見れば分かりますよ。個人の研究内容とフルネームが載っているんですから。
私にも先日、中国企業から委託研究の案内メールがきました。でも英文でしたよ。これは翻訳ソフトを使ったような日本語ですよね。
だいたい、他の共同研究者が調査を諦めたら報酬を総取りって。ゲームじゃないんだから」
なんと、稲田さんは国内企業じゃなくて、海外からも打診がきているのか。まだ大学院生なのに。俺は心の中で唸りをあげる。悔しい。
「とにかくピンポイントに的を狙った詐欺です。絶対に返信しないでくださいね。それじゃ。私、これからティーチングアシスタントのバイトがあるので」
そう言い残し、稲田さんは足早に部屋を出ていく。彼女の色褪せた白スニーカーが上下して音をたてて遠ざかっていった。
*
俺はその日、六時限目までの授業を終えて、ようやく帰宅した。夜中に青白く光るパソコン画面をまえに悶々とする。詐欺にあうことと、論文を書けるような体験ができることを天秤にかけ。
そうして、怪しいメールに記載されていたリンク先を、力を込めてクリックした。
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