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食卓には夫の好物と娘の好物が四人がけのテーブルいっぱいに並んでいる。
久しぶりに家族四人揃っての食事は賑やかだ。
お酒に強い夫と次女はビールで、アルコールに弱い長女と私は冷茶で乾杯した。
「「「定年退職お疲れさまぁ」」」
「ありがとう」
夫の目には涙が滲んでいるように見えた。
「お父さん、蕎麦打ち習いに行くの? 前からやってみたいって言ってたよね」
長女が訊く。
「そうだな、時間もあるし、やってみようかな」
「プロ級になってお店出したりして。お父さんならやりそう」
「そんな簡単に出来るわけないだろう」
謙遜しているが、次女の提案に満更でもなさそうだ。
「やってみればいいじゃない。最初から諦めるなんてあなたらしくないわ」
「そうか? まぁ、なるようになるさ」
「うふふっ、そうね」
「しかし、この唐揚げ、安定の美味さだ。いつもありがとう」
「どういたしまして」
微笑む夫に私も笑顔を向けた。
そこには穏やかで、私の描いた理想の幸せがある。私は目の前の光景に目を細めた。
「ビール持ってくるわね」
私は冷蔵庫に向かおうと席を立った。
「あれ?」
目の前に段々と靄がかかり、夫の声も、娘たちの声も遠ざかっていく。
私は靄を払い除けようと、必死に手を振り払おうとしたが、身体はいうことをきいてはくれなかった。
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