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1.あなたへの手紙
イギリス南西部の半島、コーンウォール。そこに風光明媚な港町、セント・アイヴスはある。かつては漁業と錫鉱山で有名だったこの街だが、十九世紀後半には廃れ、今はロンドンからの避暑客をはじめとする観光客誘致や、芸術家のコロニーとして有名になりつつあった。
一九〇六年十月九日のこの日、海は穏やかだった。
海岸にほど近い別荘の、二階。その書斎は壁中に本棚が巡らされ、色とりどりの美しい背表紙が、古今東西の叡智であたりを照らし出していた。
そんな書斎の、午前十時の光が当たる窓際で、青年は手紙を書いている。
樫材でできたデスクに、緑のベルベット張りの椅子。そこに腰を下ろし、青年――エドワード・ウィルクスは、薄く漉いた白い便箋にブルーブラックのインクでこう書いた。
「親愛なるご主人様へ」
書いておいて、いきなり宛名で躓いた。ウィルクスは茶色い短髪を左手で掻き回し、便箋をくしゃくしゃにして、籐編みのゴミ箱に投げ捨てる。
確かにあの人はおれの「ご主人様」だけど、自分からそれを言うのは恥ずかしい――そんな気持ちだ。
ウィルクスはもう一枚、レターパッドから便箋を剥がして、今度はこう書いた。
「親愛なるシドニー・C・ハイド様」
鋭い焦げ茶色の瞳が緩み、やや薄い唇は安堵の色を浮かべる。種の形の鼻腔が穏やかに息を吐き出し、騎士のように凄みのある凛々しい美貌もまた、安堵の色を浮かべた。形のいい吊り上がった眉が、少しだけなだらかになる。
「シドニー・C・ハイド」。それが、ウィルクスの「ご主人様」の本名だ。
ウィルクスは目で、自分の書いた愛しい人の名前をなぞった。流麗な筆跡とは言えないが、読みやすい字ではある。そのことに、再び心が安堵する感じを覚えた。
ふと思いついて、ウィルクスは着ている灰色のガウンに視線を落とした。彼は一人のときでもシャツにベストを身に着け、タイをきちんと締めている。ヴィクトリア朝に生まれ育った紳士なら、当然の身だしなみだ。その上に、今は灰色のガウンを身に纏っていた。今朝も冷えたからだ。だが、優美な刺繍が施された袖丈の長いガウンなので(それはハイドからの誕生日プレゼントだった)、ウィルクスは汚すことが怖くて、結局脱いだ。
彼は代わりに、セントラルヒーティングをつけた。かなり高価な暖房器具だが、火事に配慮して書斎と、それから客間、居間、寝室には設置されている。
デスク周りがじんわりと暖かくなってきたことを感じて、ウィルクスは満足した。ペンを取り、ペン先をインク壺に浸す。
その後は、すらすら書けた。
「ハイドさん、お元気にしていますか? ロンドンは変わりありませんか。こちらは、天気のよい日が続いています。でも、寒い日がぐっと増えました。
散歩はここ三か月、雨の日以外毎日続けています。特に、朝と夕方」
この日もウィルクスは朝食の後、散歩してきたばかりだった。そういうときはたいてい、海辺を歩く。途中、シーグラスや貝殻や、形のいいすべすべした小さな流木を拾って、書斎のデスクの引き出しに取っておいた。子どもっぽいと思いつつ、それが彼の日課となっている。
ハイドさんへの手紙に、シーグラスを同封しようかな。そんなことを考えながらそのまま続きを書こうとしたが、少しだけ胸が苦しくなり、ペンを置いて咳き込んだ。ゆっくりと、鼻から息を吸う。口から吐く。そうしていると、次第に楽になってきた。発作がおさまると、また書いた。
「セント・アイヴスの潮風は、とても気持ちがいいです。あまりにも冷たい空気は肺に障るかもしれないと、あなたは以前言っていましたが、今のところ大丈夫です。肺の調子も落ち着いています。
先日は、ミセス・ウィッタムが教会で開かれるバザーのお手伝いをしてくれませんかと、頼みに来ました。あなたもミセス・ウィッタムはご存知ですよね。近所の、あの親切で優しい女性です。肺の調子がまだ悪いので、と言って断りました。本当は参加したほうがいいかなと思ったけど、あなたが嫌がるかもしれないと思ったので」
ここで、ウィルクスは手を止めた。自分の記した文面をじっと見つめる。
「あなたが嫌がるかもしれないと思ったので」
その洞察が当たっていることを、ウィルクスは知っている。ハイドは、ウィルクスが他人と接触することを嫌う。なるべくなら誰にも会わせず、家に一人きりで閉じ込めておきたいのだ。そしてハイドはそんな自分の思惑が、ウィルクスにはバレていないと思っている。
一方で、ウィルクスからしてみればそんな思惑は火を見るより明らか――だだ漏れなのである。
ウィルクスはため息をついた。他人と接触させたくないと思っていることは筒抜けなのに、ハイドさんってどうしてこう無邪気なのかな、と思う。
――大都市ロンドンで活躍している、手練れの私立探偵なのに。人の表も裏も知り尽くしているはずなのに。どうして自分のよからぬ考えがバレてないなんて、明るく信じていられるんだろう。おれのこととなるとてんでダメ人間になるんだから。
それが切なくもあり愛しくもあり、さらに呆れ半分。ウィルクスはペンを置いて、もう一度ため息をついた。
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