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そのときだ。
玄関の呼び鈴が鳴る音がして、ウィルクスは椅子から立ち上がった。最初はミセス・ウィッタムかと思ったが、コツコツ、と拳で扉をノックする音で、違うと気がついた。ノックは重く、どっしりした響きだった。ノックの主を表すように。
ウィルクスは急いで階段を下りて玄関に向かい、扉を開けた。
朝の光の中、紅葉し始めているジューンベリーの木を背景に、シドニー・C・ハイドが立っていた。大型の旅行鞄を、両手に二つも提げて。
「おはよう、ウィルクス君。久しぶりだな」
青い目を細めて、ハイドが笑う。肉体の芯に沁み入る、低く穏やかな声で。
その瞬間、ウィルクスの目に涙が浮かんでいた。セント・アイヴスの街には住んでいるが、人々とも交わらず、孤独に暮らすウィルクス。つい一年前まで暮らしていて、刑事の仕事をしていたロンドンとも今は縁を絶ち、彼は見知らぬ田舎町にたった一人ぼっちだった。
だから、ハイドが――ご主人様が訪ねて来てくれると、泣きたくなるほどうれしくなる。昔の主人がまだ自分を忘れていないことを知って、猛烈に尻尾を振る犬になってしまうのだ。
ハイドは玄関の中に入ってくると、しっかりと扉を閉め、改めてウィルクスに向き直った。玄関の壁に掛けられた丸鏡が、ハイドの姿を映す。
ハイドは一八六センチのウィルクスよりもなお高い、一八八センチの長身に、鍛えられた厚みのあるがっしりした体をしていた。黒髪は半ば白髪になっている。二十七歳のウィルクスより十四歳年上の、四十一歳だ。顔は彫りが深く、賢い狼を思わせる。そして目と口元の辺りから、優しい人柄がにじみ出ているようだった。
ハイドは旅行鞄を床にどさりと下ろすと、逞しい腕で痩せたウィルクスの体を抱き締めた。ウィルクスは、思わず呻く。
「く、るしい……です、ハイドさん」
「ごめん」
ハイドは抱き締めたまま腕の力を緩める。ウィルクスはハイドのジャケットの、ウールの匂いを嗅いだ。それに、肌と香水の香り。顔が緩むのを抑えきれず、青年は唇を噛む。いつもちゃんとした自分を保っていたいというのが、ウィルクスの願いなのだ。
その願いはハイドの奴隷となってから、儚い夢と化している。
「あなたに手紙を書いていたんですよ」
抱き締められたまま、ウィルクスがつぶやいた。
「クリスマスまで来られないって言ったのは、誰でした?」
「予定が変わってね」
顔が見えないながら、ハイドが笑っているのが、ウィルクスには見えるようだった。ハイドはまるで試すようにこう言う。
「少し、早めに君の顔が見たくなって。来てしまったんだ。迷惑だったか?」
「……いいえ。おれも、会えてうれしい」
それから、ウィルクスは猛烈に恥ずかしいながら、勇気を振り絞って、
「すぐに寝室に?」
そう尋ねると、ハイドは首を横に振った。
「いや。長旅で疲れた。いっしょに朝のお茶を飲もう」
体を離し、ウィルクスの顔を見て、ハイドはにこっと笑う。
その日差しのような笑顔に、ウィルクスも微笑んだ。心の奥が緩み、同時に飢える。ハイドの顔を見ると、条件反射で「そういうこと」を期待してしまうのだ。
なぜなら、ウィルクスはハイドの性奴隷として、彼の別荘に飼われているから。
一九〇六年のこの時代、同性愛はイギリスの法律に抵触する行為だ。だからハイドはウィルクスを世間から隔離して、縁故者も友人もいないロンドンから離れたこんな田舎町で、ひっそりと彼を「飼って」いるのだ。「療養のために別荘を貸している」という名目で、双方合意のもとではあるが。
そして性奴隷のウィルクスは、この日も漏れなく期待した。そしてそんな自分を激しく恥じた。「そんなこと」を期待するなんて浅ましいことだ、とウィルクスは内心、自らの頬を平手で打つ。彼はとても真面目で、未だに性に対しても潔癖だった。しかし、ハイドは奴隷の煩悶に気づいた様子がない。
ハイドは鞄を放ったらかしたまま、黒い革手袋を嵌めた手でウィルクスの手を握った。
「行こう、ウィルクス君」
するとウィルクスは煩悶を忘れて、心は一目散にハイドに向かう。
「ええ。ハイドさん」
ウィルクスが笑うと、ハイドも笑い返した。二人は寄り添って、キッチンへと向かった。お湯を沸かし、紅茶を淹れるために。通いの家政婦は来るが、常駐の使用人がいないため、そういうことは全部二人でしなくてはならない。
そしてそんなふうに手間暇をかけることが、ウィルクスにとっては無上の喜びとなる。ここ一年の間、ずっと。
――今回は、いつまで居てくれるんだろう。
愛慕が籠った目でハイドを見上げるウィルクス。ハイドは静かな眼差しで、まっすぐ前を見ていた。心ここにあらずという感じだ。
ウィルクスは、自分のほうをちらとも見てくれないハイドに寂しさを感じ、手を握られたままとぼとぼ後をついていった。
――書きかけの手紙は、捨てようか。それとも、ハイドさんに持って帰ってもらおうか。今日の記念に。離れていても今日のことを、おれのことを思い出してもらうために――。
また感傷的なことを考えていると思い、ウィルクスは内心自分にがっかりする。そういう湿っぽいことが好きな自分が、彼は嫌いだった。
しかし、キッチンに行くために地下へと続く階段を下りるとき、ハイドが急に振り返ってこう言った。
「ぼくに手紙を書いていると言っていたね?」
「……ええ」
「もらっていいか? 今日の記念に」
ウィルクスはわずかに目を瞠って、その表情がみるみるうちに緩む。
ハイドの手を握って、
「シーグラスもありますよ」
騎士のように凛々しくも、甘えた目で微笑んだ。
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