9.幸せであるように

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○  ウィルクスは夢を見た。  いろいろな映像が、万華鏡のように次々と現れる。『親愛なるご主人様へ』と書かれた手紙、ウェブリー・リボルバー、緑色のシーグラス、グレーのガウン、車椅子、聖書、たくさんのティーカップ、もうもうと黒煙を上げながら突っ込んでくる列車……。  ウィルクスはうなされて、ベッドの中で何度も寝返りをうった。しかし、次の瞬間。夢の中に出てきた人物によって、心はたちまち安らいだ。  一度も会ったことがないのに、彼女がアニーだと、ウィルクスにはわかる。  黒髪で、奥まった一重で、鼻の先が潰れていて、痩せぎすで。決して美人だとは言えないアニー。しかしその笑顔は、神に祝福されていた。ハイドの言葉を借りれば「マリア様」だ。アニーは聖母マリアのように、人の弱さを見つめることのできる強さと、弱い者に寄り添える弱さを同時に持っていた。  彼女はウィルクスの隣に腰を下ろすと、真剣な顔で囁いた。 「あなたは知っています。シドニー坊ちゃんの涙を。坊ちゃんの涙に気がつく人は、これまでほとんど居ませんでした。だから、あなたの深い愛情が、傷より力強く坊ちゃんの心を充たしますように」  ウィルクスはアニーに向かってうなずいた。  すると、乳母は微笑んだ。 「でも、いいのよ。永遠に心が充たされることがなくても。それもまた、人生。わたしは、愛おしいわ」  アニーの姿は、闇に消えていった。  だが、彼女がウィルクスに与えたものは大きい。アニーの言葉の中に息づくなにかが、ウィルクスに覚悟を決めさせたのだ。 ○  ウィルクスが目覚めると、彼の胸にはあたたかな光が宿っていた。アニーが宿した光だ。ウィルクスはベッドに起き上がり、痩せた胸を服の上からさすってみた。そこに、間違いなくアニーが居る気がした。  ウィルクスが自分の胸を撫でながらぼんやりしていると、扉にノックの音。完璧に身なりを整えたハイドが中に入ってきて、笑っている。彼は扉を閉めると、ベッドのそばに歩み寄った。 「まだ寝てたのか? 着替えて食事に行こう。それから、セント・アイヴスまで列車の旅だ」  早く起きて、とせかされても、ウィルクスは夢の余韻に浸っている。彼は肌蹴たシャツの胸元を整え直すと、ハイドを見つめた。 「セント・アイヴスに行ったら、どうするんですか?」 「ん? しばらく二人で過ごすのもいいかと思ってね。もう、ぼくらの邪魔をする人間たちはいなくなった。まあ、ミセス・ウィッタムには多額の金を要求されるかもしれないが、彼女が善良な人間であることを祈ろう」 「二人っきりで過ごすなんて、素敵な提案です。だったら、おれからもお願いがあるんです」 「お願い?」 「別荘で、抱いてください」 「……ウィルクス君、声が大きいよ。ぼくは、そのことに関しては、そもそも――」 「あなたとなら、地獄に堕ちても構わない」  ハイドは黙ってウィルクスを見つめた。ウィルクスの心臓は早鐘のように打っている。それでも、心は静かで清々しかった。
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