9.幸せであるように

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 ハイドは低い声で、こう言った。 「罪に問われることも、社会的に抹殺されることも、君と離れ離れになることに比べたら怖くない。君と離れてしまうこと……それが、ぼくの地獄だ。それだけは耐えられない。だから、いつもずっとこんな妄想をしてるんだ。……君と離れるくらいなら、ぼくはこの身を悪魔にばらばらに引きちぎってもらう。そして頭だけになって、君に飼ってもらうんだ。ガラスケースの中で、ぼくは毎日君に笑いかける。君はぼくを世間から隠しておこうと必死になるんだけれど、情があるから処分はできない。困ってしまって、結局寝室の隅に飾っておくんだ。素敵だろう?」 「グロテスク。それにあなたも案外、重い……ですね? ハイドさん」  ハイドは顔を上げて笑った。ウィルクスの前髪を梳って、囁く。 「幸せとは、『生涯共にいて、決して離れ離れにならないことを言うのではない』と、以前話したね。そう思っていることは、今も変わっていない。『例えひとときでも、共にあった』という『夢』を抱き続けることは大切だよ。夢があれば、独りでも生きていける。……だが、それはぼくの『強い』部分が言わせたことだ」 「……あなたも強がりだ」  ウィルクスが微笑む。ハイドも笑った。 「君と離れることが、とても怖いよ」 「でも、それも人生です」  ウィルクスは、夢で見たアニーの言葉をそのまま繰り返していた。目を瞠るハイドに笑いかけ、ウィルクスは彼の手を握る。 「いつも思いが報われて、愛しいものとずっといっしょにいられる人生もあるかもしれない。でも、愛しいものと離れ離れになって、それで苦しんで終わっていく人生もあると思うんです。でも、それも人生だ。おれは、愛おしいです」  ハイドは黙って聞いている。ウィルクスの手を握って、顎をかすかに震わせ、目を細めて。  ウィルクスは、さらに続ける。 「ハイドさん、おれは……あなたと幸せになりたかった。でも、この世でも、あの世でも、幸せになんてなれるわけがない。そう思っていました。けれど本当は、おれたちが幸せになれる場所はこの世でも、あの世でもない。『この世』に属しつつもそこから自由で、『あの世』ですら手を出せない場所。それは、『今』です。今なんです。今、おれは幸せです。だから、心と体があったかい。あなたが手を握っていてくれるから」 「……ああ、あったかいよ。ぼくも」  誰かに見られたら、という恐れよりも、ウィルクスは今ハイドを感じたかった。がっしりした体をきつく抱くと、筋肉や骨格の逞しさが、体温が、ウィルクスの胸を打った。ウィルクスはハイドの手のひらを自分の頬に押し当てて、夢中で言った。 「だからおれは今、あなたを抱きしめる。決して決して、離さない。神の(いかづち)がおれを撃とうと、決して、決して離したりしない」  頬に触れるウィルクスの手を、ハイドは強く握った。  ハイドはしばらく黙っている。 「……君は強いな」  ウィルクスがかすかに笑った。 「強い人が好きなのでは?」 「ああ。君のような。でも、個人の強さだけではどうにもならないことがある。……メアリさんも強い女性だったな。アイザックにも、ぼくやフレッドにも物怖じしなかった。でも、そんな彼女でも一度は自死を選んだと聞いて、彼女の前に出るたび、ぼくは怖かった。『世界はこんなにも残酷なんだ』という現実が、ぼくの心を切り刻むから」  うつむき、ハイドはウィルクスの手の甲に手を重ねて、また顔を上げた。 「でもぼくはやっぱり、強い人が好きだ。別れた妻のような。メアリさんのような。君のような。ぼくを置いて、独り遠くへ歩いていける人が好きなんだ。そして、ぼくは夢を見る。いつか追いつく夢を」  だから、ぼくみたいな人生もあっていいかもな。そう言って、ハイドは困った顔で笑った。その倦み疲れた、今にも泣き出しそうな子どもみたいな顔に、ウィルクスはそっとキスをする。  そして、彼は想像する。  こんなふうに泣き出しそうになりながら、アニーのスカートの裾を掴んで、邸じゅうをうろうろしていたシドニーの姿。二人を顧みる者は、誰も居ない。それでも、乳母と少年は幸せだった。  すべてから見放されていたからこそ、二人の世界は静かで、充ち足りていたのだ。  ――アニーさん。あなたが護りたかった火は、まだ消えていない。  ウィルクスはハイドに話して聞かせる。昨夜見た夢の話を。  するとハイドは目頭を押さえて、「うん、うん」と、小さくうなずくのだった。
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