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冷たい風に誘われて空を見上げると、澄んだ空気の中、星がきらめいていた。
夏はネオンの明かりで見えにくかったのに、季節が変わって、輝きを増したカシオペアが存在を主張している。
マンションのエントランス前の石段に腰を下ろした。
自分の家なのに、帰るのを躊躇う自分におかしくなって、ふっと笑うと、オイルライターでタバコに火をつけた。
吸っては吐くその動作すら鬱陶しかった。
笑いながらドアを開けたその女は、嬉しそうに俺の手を引いた。
カバンを受け取ると、待ちきれないのか俺のネクタイを緩め、首すじに口づけ始めた。
赤い下着が白いTシャツから透けて見えた。
手に馴染んだその胸に触れると、声を上げた彼女の口を塞いだ。
俺が好きだと言った香水が、まとわりつく様に香った。
いつからだろう。
その香りが、煩わしくなって、あいつを思い出させるのは。
思い出させて、彼女に触れる手がひどく冷たくて、ただただ吐き気がした。
同僚に連れられて行ったダイニングバーで、アルバイトの尚に会った。
大人しそうな印象だった。
同僚や常連客に話しかけられても、薄っすら笑って最小限の会話しかしないようだった。
それでも、好かれているのだろう。
誰も彼も嫌な顔をせず、彼の接客に満足しているようだった。
外面の良さを発揮して、食事を持って来た彼に、笑顔でお礼を言うと、少しだけびっくりした目をしたことに気付いた。
静かな雰囲気が、一瞬、熱い空気をまとった。
一重の目が、大きく見開いて震えて、俺を見た。
それが、少しだけ印象に残った。
ただ、それだけのはずだった。
ひとりでそのバーに通うようになると、話す度に少しづつ口数が増える彼が可愛く見えた。
彼自身のことを聞けば、嬉しそうに答えた。
その笑顔は俺だけに向けられているような気がして、気分は良かった。
それは気のせいじゃなかった。
それに気付いた常連客が俺に話しかけてきた。
マスターは嫌な顔をしたが、その常連客は話すのをやめなかった。
彼が以前、客を好きになって、遊ばれて捨てられたと。
彼は男が好きな男だった。
その客は、既婚者だったと聞いた。
可哀想だとは思わなかった。
誰だって、似たりよったり同じようなことは起きている。
簡単に好きになって、簡単に捨てられる。
客が皆帰って、最後のひとりになった時、ドアまで見送りに来た彼に好きだと言ってみた。
あっさり俺の手に入る姿が見たかった。
ただの好奇心だった。
見上げて俺を見た彼は、初めて会った時のように、大きく目を見開いた。
その目に少しだけ涙が浮かんだ。
その瞬間、腰を引き寄せると、強く口づけた。
他の店員がいることは、なぜか忘れていた。
帰り際マスターがため息をついたことは覚えている。
簡単にキスを返してきた彼だが、手に入れた感覚はなかった。
なぜか彼の手に落ちた感覚で、足元が暗くなった。
頭の奥では後悔しているのに、そのキスは苦しくなった彼が顔を離すまでやめなかった。
初めての時は、男と寝たことがない、勝手が分からない俺に手ひどく扱われて、それでも、俺を受け入れた。
痛がる彼の涙に誘われ、
もっと、と言われている気がして、
無理やり何度も体を繋げた。
翌朝、タバコをふかす俺の背中に、そっと頬をつけた彼が、
「好きになってくれて、ありがとう。」と言った。
なんて、バカなんだろう。
本気な訳がないだろう。
お前は男なんだから。
振り向くと、薄っすらとまた涙を浮かべて、彼が微笑んだ。
タバコを飲みかけのコーヒーに投げ捨てると、白い彼の体に覆い被さった。
今度は優しく抱いて「尚」と名前を口にすると、震えて涙を流しながら達した彼が、俺の首をぎゅっと両腕で抱きしめた。
これは、愛なんかじゃない。
震えて、涙が溢れるのを堪えて、
何度もうちつけては吐き出して。
背筋に感じる快楽に身を投げ出して、
愛だと感じるほど、俺は無知じゃない。
俺に溺れる彼がおもしろかった。
呼ばれれば、すぐに家に来て脚を開いた。
そのうち、合鍵を渡した。
いつでも来てよ、と言うと、その鍵を見つめてぎゅっと握りしめた。
そのほころんだ頬を人差し指で撫でると、猫のように目を細めた。
その瞬間、震えた指は、もう隠しようがない。
気付いているんだろう。
俺の愚かな思いに。
次の日から、あからさまに浮気をし出した俺にも、彼は微笑んだ。
一度だけ、休みの日にひどく酔っぱらった彼がいた。
赤い顔をした彼が微笑んで、おかえりと言った。
来てたのかと、彼の横を通り過ぎる時、濃いアルコールの匂いが鼻をついた。
「他にいるなら言ってよ。」
ソファーに座っている俺に向かって、こぶしを握りしめ立った彼がそう口にした。
「なんのことか分からない。」
ガンとラグの上に投げつけられた香水の瓶から、プラスチックの蓋だけが遠くに転がって行った。
「これと同じ匂いがした。」
見始めた雑誌を閉じる気はなかった。
足元の香水の瓶に一瞬目を向けたが、雑誌に戻した。
「その香りが気に入ったの?言ったら俺が買ってきたのに。」
女物の香水を嗅いでは選んで、必死な彼が安易に想像できた。
瞬間、雑誌は取り上げられ、ローテーブルの向こうに投げつけられた。
その手が俺を殴る前に止まって、さらにきつく握られた。
「なんなんだよ、お前!僕をどうしたいんだよ!」
見上げると、いつもより強い口調で涙を溜めた彼が怒りで震えていた。
握りしめた手を掴むと引っ張ってソファーに押し倒し、覆い被さった。
彼の顎を右手で掴んだ。
離せと首を振る彼に構わず、無理やり舌をねじ込んだ。
閉じようとする口を掴んだ手で押さえこむと、息する間もなく口づけた。
どうしたいかなんて、決まっている。
ただ、別れたいと言って欲しいだけだ。
別れたいと言えば、簡単に手離してやるのに。
それなのに、ついて出た言葉は、バカのひとつ覚えみたいに虚しく響いた。
「お前しかいないよ。俺には、お前だけだ。」
きつく抱きしめると、痕が残ることが分かるくらい俺に両手を回した彼が肩に爪をたてた。
床に目をやると、ラグの上に投げ捨てられた新品の香水。
お前は、知らない。
俺のカバンに、同じ香水が入っていること。
俺の愚かさが招いた結果を。
女を抱けなくなった俺が、震える理由を。
寒くて立てたコートの襟の分だけ隠れた首すじに、この前彼がつけた爪痕が温まってうずいた。
もう一度、タバコの煙を辿るように、夜空を見上げた。
タバコを持つ反対の右手を空にかざした。
薬指に収まった指輪が、カシオペアより輝いている。
本気になる訳はないだろう。
お前は、男なんだから。
吐いた煙が、風で顔を覆った。
目に沁みて、涙が零れた。
膝に肘を着き両手首で目をこすった。
こんなはずじゃなかった。
俺は、こんな臆病な男じゃなかった。
ただ、別れると言えばいい。
泣いてすがるだろう彼を足蹴にすればいい。
だけど、お前しか抱けなくなってしまった。
お前しか抱けなくなった俺はどうすればいい。
好きだと言った俺を見上げた潤む瞳が、
献身的に俺の衝動に応えるその上気する頬が、
おかえりと微笑む、その赤い、弾力を知っている唇が、
頭に浮かんで離れない。
カバンを開けた。
新たに買った香水を、空に向かって振りかけた。
けぶる煙のように舞うその香りが、スーツに染み込んだ。
本気になりたくはないんだ。
例えこれが愛だとしても。
お前しか見えなくなるのは、怖いんだ。
だから、どうか、別れると言ってくれ。
お前が、俺を捨ててくれればいい。
俺だけじゃないだろう、お前が愛せる男は。
女を抱けなくなった俺の先は見えている。
お前じゃない男を抱けるとも思えない。
これは、愛じゃない。
愛であるはずがない。
俺だけじゃないだろう。
見えない未来に、踏みだせないのは。
タバコを花壇にねじ込むと、立ち上がった。
首に手をやった。
彼のつけた爪痕が、うずいて熱くて、おかしくなった。
鍵を開けて廊下を進むと、リビングのドアを開けた。
「おかえり。」
俺を迎えた彼は、優しく微笑んだ。
その奥に見えるテーブルに、料理が盛られた皿が並んでいる。
「ただいま。ご飯、作ってくれたんだ。俺、食べてきちゃった。」
「じゃあ、片付けるよ。」
そう言った彼の左手の薬指に、お揃いの指輪が光った。
カシオペアのように、日々輝きが増す光に、胸が苦しくなった。
キッチンに向かう彼の腕を掴んだ。
分かっているんだ。
もう、どうしようもない。
手を強く引いて、腕の中にぎゅっと抱きしめた。
軽くアルコールと何かが焦げた匂いがした。
そっと彼の頬を右手で触れると、冷たい指輪にこすりつけるように彼が重みを預けて、目をつぶった。
目をとじたまま微笑んだ尚は、幸せそうに見えた。
抱きしめ直すと、潤んだ瞳が俺を見た。
彼の頬を両手で優しく包んだ。
重ねた唇は、震えて、浅く繋がった。
臆病な俺は、いまだあがいてどうしようもないけれど、
俺が覚悟を決めるまで、
それまで、どうか愛していて。
これが愛だと諦めるまで、
それでも、どうか、ただ愛していて。
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