藍鼠ーあいねずー

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 会社を出たら、わたしはいつも一度空を見上げてから帰路につく。 (よしっ。元気いっぱい)  終業時間に近づくにつれて元気が増していくわたしは、帰り道というものが大好きだ。  三十九歳って、昔はもっと落ち着いた大人を想像していたけれど、実際にこの年齢になるとどうも違うぞと気がつく。性格というものは、そう大きく変わらない。  弾むように家に向かうわたしの足元は週末に買ったばかりのスニーカー。昔はヒールを履いていたけれど、いつからかパンプス派になり、いまじゃすっかりスニーカー通勤。着る服が変われば足元だって変わる。その歳の自分に似合う服装を考えるのは、とても楽しい。 「やっぱ紅のライン入ったのにして正解だったわ。甘すぎないのにかわいい」 「うん、わこによく似合っている」 「うわっ!」  赤信号で一度止まった足が、急な声かけに反応して半歩前に出る。 「おっと」  そんなわたしの二の腕をすかさず支えたのは、縦縞の着物を粋に着こなした背の高い男性。  襟足の髪をねずみのしっぽのように細く結び、長い前髪は暖簾のように鼻筋にかかっている。硬質な髪に柔らかそうな木綿の着流し、どちらにも灰色と紺色が入っていて品がいい。 (呉服屋の店主というよりも、時代劇に出てくる侠客が似合うのは、線が細くて青白いからかしらね。雰囲気も優しげなのにちょっと怖いの)  男性の目もとは、下から見上げても見えづらい。夕日の中にあっても、彼の顔色は青白く、袖から覗く手首も、細くて骨ばっていた。  鼻から下しか見えない美貌の薄い唇が弧を描いて、たたらを踏んだわたしを甘く叱る。 「こら、危ない」 「もう、白花(しらはな)が脅かすから」 「そうか、悪い」 「ははっ」  わたしが笑うと同時に二の腕の拘束が解かれて、体の自由が戻ってきた。  この感覚はいつまでも慣れない。急にふっと柵が解かれる妙な感覚。 (聞こえたかな……)  さりげなさを装って、自分の周りと横断歩道の向かい側を窺う。信号待ちをする人たちは、誰も彼も揃えたように手元のスマートフォンを弄っていた。誰も人のことなんて気にしていない。 「よかった。誰も気づいてない。変な人って思われるところだった」 「それはよかった」  白花の相槌はすっかり他人事だ。周りの目を気にしない白花らしい。  わたしが人の耳を気にしたのは、いちゃついたカップルみたいなやりとりをしちゃったから、ってのもあるのだけれど。 (もう、だなんて、浮かれてるみたいで恥ずかしい)  仕事帰りの会社員が行き交う交差点に突如として現れた、背の高い着物男性。スーツ姿の人が多い中、灰色の着流しはさぞ目立つだろうに、誰も彼に注目しないのは、なにもスマートフォンのせいではない。 (わたしにしか見えない。わたしだけが特別で、わたしだけの特別なの)  目を凝らして注目しようにも、誰の目にも、彼は映らない。  青白い顔をした着物姿の男性で、見えるのはわたしだけだなんて、さながら幽霊のようだ。 「おかえり、わこ」 「――ただいま」  正面を見据えたまま、わたしは唇を動かさずに返事をする。  幽霊でも構わない。彼こそが、わたしの大切な人。  白花との出会いは、かれこれ五年ほど前に遡る。  いまでこそ彼のことが好きだと、穏やかな気持ちでいるけれど、初対面はなんとも表現しづらいものだった。 (端的にまとめるなら、そうねえ……) 「――神社で出会った、つきまといおばけ」 「え、どうして急にそんなひどいことをいうのだい?」  ひどい言い草だけれど、ほら、本人も自分のことだと自覚があるから、いい得て妙なのだ。  当時、一人旅が好きなわたしは、厄年を前に、全国の神社巡りをしていた。  白花と出会った神社は、某県の最南端に位置しており、二つの顔を持つ絶景スポットとして観光名所としても有名だった。  岬はまさに断崖絶壁。満潮時には高い断崖に荒々しく当たる波が迫力満点の白波となる。そこに雨が足されると、いかにも事件が起こりそうな不気味さを醸し出す。サスペンスドラマのロケ地でもよく使われる。  晴れた日の昼間は、一転。百八十度を超える見事な青空のパロラマは感動必至だ。わたしのお目当ても、大きな青空を眺めながら写真映えするかわいい鳥居を潜ることだった。 (んー、気持ちいい!)  その日の天気は最高に良かった。会社の有給休暇を利用して平日に訪れたのも良かった。周りにいるのは大人ばかりで、ゆっくりと時間が流れていく。 (こんなに広い神社だって、知らなかったなあ)  SNSにアップされている写真は、みんな揃って青空をバックに並んだ朱色の鳥居ばかりだったから、実際に来てみて驚いた。  大鳥居からここまで、すでに十分は歩いている。  石製の大鳥居は、昭和の雰囲気が漂う商店街の突き当りにあった。いかにも地元の神様という感じがよい。境内に入ってすぐ、社務所や授与所と陣地どりをするように、大きく立派な本殿もあった。一見すると、境内はそれですべてのように見えた。 (歴史ある神社って聞いていたけれど、建物が新しいなあ)  戦争や火災で焼失後に、建て直された神社はままある。社務所の窓口に置いてあった小さな冊子を手に取って、神社の遍歴を読んでみると、なるほど神様を祀り始めたのは平安時代の末期らしい。本殿や社務所が建てられたのは江戸時代だった。  参拝者向けに重ね置かれたパンフレットは、日に焼けて色が変わっていた。表紙には鼠色のクレヨンで荒々しく毛並み表現された猪のイラストが描かれていた。地域の小学生の学校名と学年、名前が小さく載っている。  本殿を仰ぎ見ると、屋根に使われている金属の建具にも猪が彫ってある。狛犬は狐だった。 (猪に狐かあ。あ、あった。こっちだ)  パンフレットの境内案内を見て、本殿の裏に回ると、岬に続く暗い細道が現れた。 (あーよかった。来る神社間違えたかと思った)  細道を抜けたら景色はパッと開けて、SNSで見た場所にたどり着いた。そこから十五分ほど緩い坂道を上りつつ、複数ある鳥居をくぐった先にあるのが、ここの神様のもともとのお家らしい。 (昔のお偉い人が岬の先まで出向いてお参りするのが大変だから、あとから本殿を建てたって聞いたけど、こっちも残したのはわがままだって自覚があったのかな)  なんて横着な、と遠い昔にこの地を治めていた人物を想う。 (まあでも、時代によっては、それでおまんま食べれる人もいたわけだから、経済を回したといえば回しているのか)  海から吹きつける強い海風を感じながら短くない距離を歩いて、わたしは辿り着いたお社に手を合わせた。風よけなのか、人工的な竹藪が小さなお社を囲って視界を遮っている。せっかくの絶景がお社の中にいる神様には見えないと思うと、細い竹たちを刈り取りたくなった。 (おじゃまします。ここに来るまでの景色、とってもきれいでした。昔はお社からも遮るものなく見えたのでしょうね)  お参りの際、わたしがとくに祈ることはない。初めましての神様になにを伝えていいのやら。願い事なんてもってのほか。図々しくてそんなことできない。だからいつも、ただ無心で手を合わせてご挨拶をするのが、わたしにとっての参拝だった。  そのときもそうして、ゆっくり目を開けて周囲を見回した。参拝者は疎らで、ちょうどお社の前にはわたしのほかに誰もいなかった。  おかげで、雨風や塩害で傷んだお社をのんびり観察することができる。  本殿と同じ神様が祀られているらしい摂社は、本殿とは神様の格が違うかのように小さく、そして古かった。  きれいに整備された本殿エリアや参道周りを先に見ているからか。木造のお社は大きな台風が一つでも来たら朽ちてしまいそうでなんだか切ないし、格子戸に貼ってある色褪せたお札は意味深だ。その正面に、明らかにあとから置かれたとわかる新しい木目のお賽銭箱が置いてあるのが怖い。お賽銭箱の中央には、お賽銭の彫り文字と猪の彫金が取りつけてあった。 (人の煩悩を強く感じるのはなぜだろう……)  曲げていた膝を伸ばして後ろを振り返ると、若いカップルが参道を歩いてこちらに向かっていた。人の気配にホッとすると同時に、もう数分でこちらに到着しそうだと判断して、最後に一度、お社に向かって頭を下げた。  ――チカッ 「え?」  下げた目線の先、お社の下あたりの一角が、青く小さく光った。 「え、なに?」  気になってもう一度体を屈めてみると、お社の角に先ほど観察したときには見落としていた石柱があった。山道でたまに見かける古くて原型の崩れた石の標柱だ。  騒ぐほど大きな光ではなかった。ガラスかなにかを太陽に反射させたような小さな光。 「あーびっくりした。混ざりものでも光ったかな」  標柱に光を反射する鉱物が混じっていたのだろう。一拍おくと冷静になって、思わず声を発した自分を恥じる。場の雰囲気に呑まれて、物語の主人公になった気になっていたのだ。 (ふふっ。なんだあの怪しげな光は!? みたいな。ふふふ。物語なら導入部分だわ)  わたしは昔から物語が好きだった。特にヨーロッパのファンタジーは大好物で、読んでいる物語によく思考が引っ張られる。そのときも、古典的な勇者物のドラマに嵌っていた。  一人遊びみたいになった自分にこらえきれずに、クフっと笑いが漏れる。そして、拝殿に到着したカップルと入れ違うように、わたしはにやけた口元を隠してそそくさとその場を去った。  ――物語、始まっちゃう? なんて考えながら。  戻りは、左手に広がる大きな青空に惹かれて、誘われるように参道を逸れた。転落防止の柵に近づき海を見下ろす。キラキラキラキラ水面が輝いている。地上から上を見るか、下を見るか。選ぶ視点によって全く違う世界が広がっているのは、とても面白い。日常だってそう。 (さっきの石、青っぽく光ったのよね……。なんで青かったんだろう。妖精の羽だったりしたら素敵なんだけど)  飽きもせずに妄想は膨らむ。 (青い羽だったら、水か宝石の妖精かな。石の後ろに妖精の国への入口があるの。たまにしか開かないそこは、招待された者しか訪れることはできなくて……。うーん、竹藪に妖精ってイメージ違うなあ。ベリーの木の茂みとかがいいなあ)  ぼんやり海を眺めていたら、視界の端に着物姿の男性がいることに気がついた。わたしと同じように、一人で海の向こうを眺めている。ずいぶん背が高い。 (白っぽい着物を着こなせるってすごいなあ。広報誌の撮影かなにかかな)  ジロジロ見るのも失礼だと、早々に男性からは視線を外した。それからもわたしは、満足いくまで海を眺めて、参道に戻った。そのころには、着物男性のことはすっかり意識から消えてしまっていた。  参道に一定間隔に並ぶ鳥居は低くて、一つ一つ潜るたびになんだか楽しい。まずはお参りを済ませてからと、行きはただ潜るだけだった鳥居もしっかり視界に焼きつける。 「朱色の柱がかわいいー」  とてもいい気分で日差しを浴びて歩いていると、ついついひとりごとを漏らしてしまう。うれしかったり楽しかったりしたとき、それを声に出すとさらに気分が上昇するから不思議だ。  ただし、わたしもいい大人。声に出したいときには、事前に周囲をよく確認する。そのときだって、ちゃんと周りに誰もいないことを確認していたのだ。確認したうえで、表情まで崩してご機嫌に声を出したのだ。 「朱色が好きなのかい?」 「ほげっ!?」  弾かれるように振り向いた先にいたのは、柵のそばで黄昏ていたあの着物男性だった。年齢はわたしよりも少し上くらい。先ほど、彼を見かけた際に、広報誌のモデルかなと思ったほどに、一般的に見て男性はとても整った容姿をしていた。ありていにいえば、かっこいい。  わたしがもっと若かったり、これが海外旅行中ならば、一人でいる女性を狙った声かけだと判断するけれど、三十三歳。さすがにいまの自分が客観的にどう見えるのかは弁えている。軽く山登りでもできそうなスタイルで旅行中のわたしに、ナンパの線はない。 (詐欺か。勧誘か。着物を着ているし、催事の案内とかかな) 「あの……」 「おやおや。見えるだけでなく、声も聞こえているのだね。うれしいなあ」 「は?」  どんな勧誘でも毅然とお断りできるように、わたしは気を引き締めて姿勢を正した。対峙した男性は、なぜか嬉しさを隠しもせずに中二病セリフをぶつけてきた。  それが、存外にのほほんとゆっくりな口調だから、クールな着物姿とのギャップにペースが乱される。時代劇で配役されるなら、彼は侠客や忍者だ。そんな見た目の男性が、縁側でのんびりとお茶をすするおじいちゃんみたいな温和さで微笑んでいる。 (え、なに、メンヘラナンパ? わたしがいなくちゃって、貢がされるパターン? 勧誘よりも高くつきそう……)  正直いうと、真正面から見た彼は、顔色が悪いことと痩せぎすな点を除けば、わたしの好みドンピシャだった。さっきは白っぽい着物としかわからなかったけれど、近くで見ると粋な縞模様だ。青みがかった灰色の地に、同じく青みの深い紺色が細く入って縦縞を作っている。柔らかそうな生地は木綿だろうか。濃紺の帯が見事に全体を締めて上品に見せている。 (彼の帯にガラス玉の根付けをぶら下げて陽の下を歩いたら、さっきみたいな色を反射させるのだろうなあ……)  落ち着きのある着物男性は大好きだし、憧れもある。  だけど、これはない。 「どれくらいぶりだろう。ひふみ以来だからね、ずいぶんだ。いやしかし、ひふみまで誰もいなかったことを考えると、あっという間かな」 「……」 (しかもナンパするのに前の女の名前を出すか。こっちが若くないからって舐めてるな。物取りじゃなさそうだし、暴行もなさそう。今日はこのまま帰るから、さすがに県外までは追ってこないでしょう。家を知られる心配もなし、っと) 「ちょっと、お待ちよ」  付き合うのも馬鹿らしくて、わたしは早歩きで神社をあとにした。帰りは下り坂でよかった。 (そろそろお昼だし、ランチをして帰ろう)  お店は事前に決めてあった。SNSで見つけたランチを楽しみにしていた。――のだけれど。  神社の大鳥居は、境内側から見れば土産物屋が立ち並ぶ商店街の入口でもあった。見事に直結している。わたしは、商店街の店頭に並ぶ饅頭や煎餅などを冷やかすように眺めてしばらく、背後にある違和感に気づいた。それとなく数歩歩いては止まり、歩いては止まりを繰り返す。 (……よし)  気のせいならばそれでいい。わたしは後ろの気配を気にしながら、いくつ目かの角で商店街の脇道にそれた。直後に曲がった細い路地。駅に向かうなら商店街をこのまままっすぐ抜けるべきだし、わたしが行きたい定食屋もこの道は曲がらない。  角を曲がってすぐにわたしは急停止して、スパイ映画さながらに体を反転させた。待ち伏せした直後に現れたのは、神社で話しかけてきた、あの着物姿の男性だった。 「あの……どうしてついてくるのですか?」 「あなたは、わたしが見えているからね」  地図アプリを見る限り、この先は民家ばかりだ。もしかして、もしかしてと思っていたけれど、やっぱりわたしはあとをつけられていたらしい。このいい分は、地元民でもなさそうだ。 「話もできるなんて、嬉しいねえ」  交番はすぐそこだ。わたしは、たったいま曲がった角が、交番だったことをきちんと確認していた。 (大声を出せば聞こえる。ランチはどうしようかな。この人振り払えるかしら)  神社からここまでつけてきたおかしな人物だ。逆上されるのは怖い。  わたしはわざとらしく交番を見上げながら商店街に戻ると、とりあえず目的の定食屋に早足で向かった。  定食屋までの距離が想定したよりも近くて、振り払うことは失敗したけれど、店の中に入ってしまえば他の人の目もある。店の前で何十分も待ち伏せされることはさすがにないだろう。もし食事を終えても店の外に不審者がいるようなら、店員さんに事情を話して一緒に通報してもらおう。 「お客さん、何名?」 「一人です」 「そこ座って」 「はい」  通されたのは四人掛けのテーブル席。やっぱり平日はいいなあと感動していたら、まさかまさかで、中二病のストーカーがわたしの横に立った。店の中までついてきたらしい。 「え、怖いんですけど」  ほんと、やめてほしい。ドン引きだ。  だけど、本当に怖いのはそのあとのことだ。 「注文決まったら呼んでね」 「え、あ、はい、海老天定食大盛りで」  おしぼりと水を持ってきた店員さんが、この怪しげな男性に反応しない。相席するでもなく、人のテーブルの前にぼんやり立っている着物姿の長身男性に目を向けるでもない。 (いま、店員さん、かなりギリギリをすれ違ったよね?)  なのに、避ける仕草もなかった。  テーブルに置かれたおしぼりと水は一つだ。  混雑もしていないのに、立ったままの客が、いないもののように無視されている。 (嘘でしょう? ほんとうに見えていないの?)  背筋を気味悪さが撫でていく。  嫌な予感が膨らむ中、漆塗りの大きな盆を両手に抱えた店員さんが厨房のほうからやってきた。 「できたようだよ。よかったねえ」  厨房とわたしとの間には、突っ立ったままの彼がいた。店員さんもまっすぐにこちらに向かってくる。そのまま進めば大惨事になる。 「あ……」 (だけど、ほんとにわたしにしか見えていなかったら?)  緊張の中、わたしは店員さんになにもいえなかった。 (ぶつかる!)  まさに二人が衝突する直前、男性のほうがわずかに後ろに移動した。だけど、見込みが甘かったらしく、店員さんの左ひじの先が、男性の体に接触してしまった。 「うわ……」  否、接触するかに見えたけれど、店員さんのひじは、宙を切った。宙というのは、直前まで、いやいまも、本来男性の腕や胸があるはずの場所だ。そこが一瞬で、男性の体の一部なのにぽっかりと消えていた。ひじがぶつかるはずだったその部分だけ。  そうして店員さんは危なげなくわたしの横から定食を提供した。 「はい、お待ちどう」 (し、心臓に悪い……)  ちょうど目の高さで起こった怪異。見間違いはない。 「――こんな天気のいい日に幽霊がでるなんて……」 「おや、頭が痛むのかい?」  特大海老フライの載った天丼を前に、わたしは頭を抱え、唸り声を上げた。これが、わたしと白花との出会いだ。  かっこいいと思った、頭のおかしな人だと思った、不審者だと思った、グロいものを見せられた。感情が散らばって、白花への第一印象は、滅茶苦茶だ。 (よし、いったん忘れよう)  人が人を通り抜ける怪奇現象を目の当たりにして、わたしはそれなりに動揺した。そして、動揺しつつも、豪華な海老天定食は温かいうちにいただいた。一度に二つのことをするのは苦手なのだ。ぷりっぷりの海老を頬張って、具沢山のお味噌汁に舌鼓を打っている間、彼はわたしの横に佇んでいた。 「たくさん食べるねえ」 (うっわ、おいしい。このたくあん、お土産に買って帰れないかな)  彼の視線は非常に邪魔だったけれど、おいしいものはおいしく食べるのがわたしの正義だ。 「お茶をどうぞ」 「ありがとうございます」  食事中も、会計時も、店員さんは彼という不審者についぞ反応しなかった。  空席だったとはいえ、電車の指定席に座るわたしの横に勝手に収まった彼に、車掌さんは指定券の提示を求めなかった。指定券どころか乗車券も持たず見事な無賃乗車を果たした彼を、自動改札機は停止させなかった。呼び止められることもなかった。  無視しても無視しても平然とついてくる彼を振り払うことはできなかった。人目を気にせずに走ってみても、なぜか彼は常にわたしの横にいた。草履だから足音が響かないとか、そういう次元の話ではない。  彼は走っていなかった。全速力で走って、髪の毛をぼさぼさにしたわたしを見下ろす彼の髪の毛は、一筋も崩れていない。着物も同じく。それどころか、強い風が吹いても、前髪が風に煽られることもない。  彼をまくために、普段使わないタクシーも利用した。彼が乗り込まないうちに急いでドアを閉じて発車してもらったのに、発車したときには、彼は当然のようにわたしの横にいた。 (こんなの、人どころか、生き物なら絶対にありえない) 「あ、でも、もしこれで実は人でしたとかなったら恐怖だから、ちょっと家に入る前に確かめさせて」  半日つきまとわれて、彼の異常性は理解しつつも、家に入れるとなれば人間の男ではないという確証が欲しかった。だから、マンションのエントランスで、最終確認という名の最後のあがきを実施した。 「人だと恐怖なのかい?」 「いいから、手、出して」 「これでいいかい?」  不思議そうに、彼が青白い手を胸の前にかざす。 「うわあ! 消えたっ! 手、近づけたら消えた! すーって通り抜けるんじゃないんだっ! 消えるんだっ! 終わった!」 「終わった?」 (終わった。これ、もう、疑う余地ないじゃん) 「いい? 物には触らないで。ここにいるなら、端っこのほうで、邪魔にならないようにして。面倒を見る気はないから。ごはんだとか、トイレだとかは外に行って。ベッドには絶対に触らないで」 「わかった」  いつの間に脱いだのやら、わたしの靴の横には、一揃いの草履が行儀よく並べてあった。自分の靴の隣に、一回りも二回りも大きなサイズの履物が並ぶ様子に一瞬だけ胸が跳ねた。  前の恋人とは数年前に別れた。それからわたしに恋人はいない。三十を過ぎて、いろいろといわれることもあれど、人は人だと割り切ってきた。気にしていないといいながら、男性の靴が自分の家の玄関にあるだけで動揺するのだから、実際は気にしているのだなあとこんなときに自覚する。  靴を脱いで廊下から部屋につながるドアを開けると、すでに彼は室内に立っていた。遠慮もなく人の家に裸足で上がったおばけに、ここで過ごすための注意事項を捲し立てて旅行カバンを床に下すと、ドッと疲れが襲ってきた。 「あーもう無理。寝る」  メイクだけはしっかり落として、わたしはシャワーも浴びずにベッドにダイブした。  精神的にくたくただった。 (人間の男なら不用心だけど、おばけならもういいや)  相手がおばけなら、わたしには対処のしようがない。枕にうつ伏せた横顔に視線を感じながら、わたしは諦めとともに睡魔に負けた。 (明日の朝、わたし生きてるかなあ)  なんて、考えながら。
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