藍鼠ーあいねずー

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(我がことながら、ふてぶてしい……)  ぐっすり眠って朝、生きていることへの感謝よりも、己の神経の太さに感心した。この図太さは子どものころからだ。決して年のせいだとはいわせない。  アラームをセットしなくてもいつも同じ時間に自然と目が覚めるわたしは、弾丸旅行の翌日でもすっきりと起きられる。 (シャワー浴びよ……)  体を伸ばしながら床につま先を下して、ふと、部屋の端から端に視線を動かした。 (いない……)  眠っている間に出ていったのだろうか。あれが夢とは思わなかった。凄まじいストレスを覚えた精神が、昨日の着物おばけのことをしっかり記憶している。 (鍵、確認しなきゃ……)  おばけが独居女性に気を利かせて施錠して出ていくなんてことはないだろう。  裸足でペタペタ玄関に向かう。 「あ、そっか。わざわざドアなんて開けなくても、通り抜けられるのか」  昨夜、手と手を合わせようとして消えた彼の手の映像を思い返す。ブルリいまさらながら両腕を擦って、わたしはシャワーに向かった。  普段通り、朝食をしっかり食べて家を出る。  ドキドキしながら鍵をかけて、マンションのエントランスを緊張しながら歩く。悪いこともしていないのに、抜き足差し足になるのはなぜだろう。猫背で周りを窺う。オートロックの自動ドアを出たとき、わたしは腹の底から安堵のため息をついた。 (よかった……! いなくなったんだ)  不思議な体験をしたのはたかが半日、されど半日。日常って素晴らしい! と、普段なら嫌々出勤する有給明けの会社に、わたしは弾むような気持ちで出社した。 「ここの人間たちは静かだねえ」 「……?」 「おや、彼女はまたなにか食べているよ。あなたは食べなくていいのかい?」 (……ひいっ!)  わたしは商社で受注事務の仕事をしている。大手の会社で、それなりに社員数も多く、かといってオフィス自体は静かだ。営業陣は日中出払っているし、事務職のメンバーは己のデスクで各々の仕事をしている。いまさら質問しあうような仕事も少ないし、電話応対の声ばかりが聞こえるような職場だ。  後ろに立たれることもほぼないし、話しかけてきたのが昨日の着物おばけだとくれば、心臓がギュッと縮む。  解放されたと朝あれだけ浮かれた分、ぬか喜びだったと知った衝撃は大きい。見積書を作成している最中に聞こえたほわわわんと能天気な声に、タイピングの指を止めたわたしはしばらく抗った。後ろを向いたら負けだ。 (え、なんでいるの? なんでいるの?)  心がざわざわし、頭は混乱している。なのに、背後に現れた彼は、わたしの動揺などお構いなしにゆったりと話しかけてくる。 「小暮さん、三番に内線です」 「あ、はい。ありがとうございます。――お疲れ様です、小暮です」  混乱していても、仕事は待ってはくれないし、こちらを振り返って電話を繋いでくれた同僚の目に、部外者の彼の姿は映らなかったらしい。用件だけ告げて、すでにパソコンと向き合っている。 「あなたは、こぐれさんというのだねえ。あ、大丈夫だよ。さんというのは名前じゃないのだと、ひふみに教わったからねえ」 「――はい、納期に変更はありません。――はい」 「おや、それは人間の言葉を話すのだね。魂は宿っていないようだけれど。なんという生き物だろう」  見えやしない、聞こえやしないと半ば祈るように自分にいい聞かせながら、万が一彼の姿が露見したら、部外者を会社に入れたわたしが叱られる。 (背後霊のようなものです、勝手についてくるんですっていったら、信じてもらえる?)  いやいや、ドン引きされて終わりだ。  彼がのほほんと話すたびに、わたしの精神はぐりぐりと削られた。  彼が場所を教えてもいないわたしの職場に現れたのは、昼過ぎだった。せめて昼休み前なら、人目のないところに行って、どこかへ行けといえたのに。わたしはマイペースに話しかけてくる彼を、終業時間までただひたすらに無視し続けた。「こぐれさんは無口だねえ」なんていらぬ評価を受けて、へとへとになって会社を出るまでは、確かに彼はわたしのそばにいた。 (家に帰ったら詰めてやる)  そう思っていたのに、帰宅して後ろを向いたら、彼はそこにいなかった。 「え……、もう。おばけって勝手……」  玄関に崩れ落ちたわたしは、とても不憫だと思う。  自分勝手な着物おばけは、寝る前に再び部屋の中に姿を見せたけれど、半分眠りの世界に旅立っているわたしの口から非難の言葉が出ることはなかった。  会社の新人さんに対してもそうだけれど、注意事項はできるだけ早期に伝えるべきである。あと回しにしてしまうと、大抵気づいたときには同じ失敗を失敗と思わずに複数回繰り返しているものだ。 (こっちもフォロー大変だし、向こうももっと早くいってよってなるもんね) 「おはよう、こぐれさん」 「……」  朝起きたら、カーテンを閉めたままの薄明りの中で、粋な着物を着た男性に朝の挨拶をされた。 (……勘弁してよ、もう)  初日に隅にいるようにいったことを守っているのか、彼の姿はベッドから離れた部屋の入口ドアの前にあった。なぜか床に正座をして、こちらに体を向けている。背中に物差しを入れたように、みごとな姿勢の美しさだ。 「悪さしないから、いいっちゃいいんだけどさあ……」  彼がマイペースで自分勝手なのはもう、おばけの性だと諦めよう。ただ、なんでわたしなのか、厄年はまだ来年からのはずなのに、ちょいと早すぎやしないか。 (ちがう、ちがう。厄年っておばけに遭遇するわけじゃないって) 「悪さかい?」  カーテンを開けて日差しを部屋に入れても、彼は消えない。日差しの下で出会ったのだし、そりゃそうだ。 (吸血鬼じゃないんだよなあ。にんにくも効かないか)  チューブにんにくでも効果あるのかなあとぼんやりしながら、床に散らばっていたスリッパを履く。  電気ケトルでお湯を沸かして、洗面所で洗顔をするわたしを、部屋の入口に立ったままの彼が視線で追いかけてくる。ぶつかることはないにしても、狭い家だ。視覚的に邪魔だから、どいてほしい。 「――おばけなんだし、金縛りとか? ガラスを割るとか?」 「わたしはおばけではないよ」  意外なことをいわれたと、おばけでないらしい彼は首を傾げた。 「え、違うの?」 「おばけとは、人間の成れの果てだろう? ひふみがいっていた。わたしは人間であったことはないよ」  また出た、元カノの名前。元カノがいながら、人ではないという。じゃああれか。漫画でよくある種族を越えた恋。人間との恋といえばあれか。 「妖怪?」 「うーん。わたしは妖怪とやらを見たことがないからねえ」 「じゃあなに?」 「さあねえ。わたしはわたしと同じ種に会ったことがないのだよ」  着物を着た人外なんて、神か、鬼か、妖か、おばけか。わたしの知識なんてそんなものだ。 「あっ、やばい。遅刻する!」  ゆったりとした口調の彼と話しているうちに、家を出る時間が迫っていた。彼の正体は気になれど、わたしは会話を切り上げて、大急ぎで茶碗にごはんをよそった。小分けのかつお節の袋を引き破って、醤油蔵で購入したお気に入りの醤油をかけてかきこむ。行儀が悪くても、一人だから平気だ。 「会社行くから、ついてこないで!」  確かにそういって家を出たはずなのだけれど。 (――だから、どうしているの……)  急いだ結果、普段よりも早く会社についた。そして、彼は、事務所のセキュリティカードをかざすわたしの横にいた。今日も私は、部外者を連れての勤務になるらしい。 「それはなにをしているのかい?」 「ついてこないでっていったでしょ?」 「いっていたねえ」  就業前に人に見つからぬよう彼を咎めてみたけれど、彼にわたしの要望を呑む気はないようだった。ゴリゴリに集中力を欠かれながら、普段の倍以上の労力でもってわたしは一日勤務した。 「だから、職場にはついてこないで。気が散るの。仕事にならない」  帰宅途中、人が途切れた瞬間を見計らって、わたしは彼に抗議した。夕方の道路は、バスや車が多く走っていて、わたしの声をかき消してくれる。 「ねえ、聞いてるの?」 「うん、聞いているよ」  なんだその返事は! キィ! と叫びたくなるのを抑えて、もう一度頭から同じ話を繰り返す。  ――こぐれさんはなにをしているのだい?  ――おや、彼はどこかに出かけるようだよ。  こんなしょうもないことで、いちいち声をかけないでほしい。  受発注事務は、確かに単純作業が多い。だけど、発注ミスの許されない仕事だ。納期の掛かる受注生産品も多いし、扱う商品によっては一度の注文で一千万円を越える価格のものもある。客先の注文を取引先やメーカーに伝えるだけではない。注文書の矛盾点は客先に指摘して確認するし、それによって発生した問い合わせにも対応する。見積書だって作るし、回収金の処理もする。つまりは、おしゃべりしている余裕も、おしゃべりを聞いている余裕もないのだ。たった一文字の打ち間違いが、大事になる世界。集中力の求められる仕事。メーカーの大半は、発注時刻を一分でも過ぎたらその日はもう対応してくれない、そんな時間勝負の仕事でもある。 「そっちは足場がないよ」 「わっ!」  そばにいられると困る事情を懇々と訴えていると、上げた右足が急に動かなくなった。同時に、右腕がわたしの意思とは関係なく、勝手に大きく後ろに振り上げられて同じく宙で固まった。 「え、えっ、なにいまの……」  思わず見上げた彼は、わたしの足元を指さしている。そこはちょうど歩道と道路との境で、大きな段差があった。横断歩道もないような道だから、うっかりしていた。 (ん? て、え!?) 「あ、いまの金縛り!」 「ん? これかい?」  まさしくいまのは金縛りなのではないか。右の手足だけだったけれど、確かに自分の意思で動かせなくなっていた。いまはもう解けているけれど、確かにあれは金縛りだ。朝話題に上がったばかりの現象に、やっぱりおばけなんじゃないかと疑う。  だけど、当人はピンとこないらしく、うーんと気の抜けた返事だ。 「これが金縛りなのかい?」  そうしておもむろに両手をわたしに見せてきた。目の前に差し出された青白い手のひらを、なにが起こるのだろうとじっと見つめる。 「いまのはこれだよ。ここにあるものを固めるようにしてね、こうね……ほら、ふよふよしていたものが固まっただろう?」 「ごめん、見えない」  実演してくれたらしいけれど、あいにくわたしに見えるのは彼の両手だけ。手相のない手のひらって違和感がすごいなあとしか感想はなかった。  あと、やっぱりいっていることが中二病っぽい。無自覚で人と違うことができちゃうとか、チートの魔術師か。あるいは妖怪か、神か。これらを同列にするわたしは信仰深くない。 「ふむ。これは見えないのだねえ」  なんだか残念そうな彼に、これだけは告げておこう。 「助けてくれてありがとう。でも、固定するのは腕だけにしてね。急に足をとられると顔から前面に倒れそうで怖い」 「わかったよ」  助けてもらっておいてお礼だけで終わらなかったのに、嫌な顔一つせずにわかったといえる姿勢は見習わなきゃな、と思った。  金縛り類似現象のせいですっかり有耶無耶にしてしまった職場出入り禁止の沙汰を、どう納得させようかと考えながら、今夜はかぼちゃ入りのかき揚げを作った。平日に片付けが面倒な献立を作ることはあまりしないのだけれど、今日は特別だ。仕事中、冷凍庫の中に使いかけのスライスかぼちゃがあるのを思い出したのだ。 (かぼちゃを投げつけたら退治できるおばけがいた気がする……違ったっけ? 死者の話だっけ?)  今日を逃したら、また半月は忘れる。 「うまっ。一つだけならいいけど。食べる?」 「わたしは食事をしないのだよ」 「そう」  おいしくできたから一つくらいはお裾分けしようとしたけれど、そうだった。彼は人じゃないんだった。 「こぐれさんはおもしろいねえ。血縁血統でもないのに食べ物を分けようだなんて、なかなかいないものだよ」 「なかなかって……。あなたの想定する生き物の範囲が大きそうでなんともだけれど、少なくともわたしのまわりの人間は家族以外にも食べ物をあげたりするよ」 「そうなのかい? おおらかになったものだねえ」 「それよりも、小暮さんっていうのやめてくれない? 一気に仕事スイッチが入りそうになる」 「そうなのかい?」 「環湖。わこっていうの」  円形の湖と書いて環湖。いまの子どもたちならありかもしれないけれど、わたしの世代では完全にキラキラネームに分類される。あこと聞き間違えられたり、かんこと読み間違えられたり、音も漢字も伝えづらい。 「わこ。こぐれさんではなくてわこだね」 「そう。あなたは?」  人には発音できない音なんだなんて、ここでも中二病設定が飛び出すかもしれないと半ば期待しながら聞いてみる。 (あ、でも、名前を聞いた途端なにか起こるケースも……。名前を訊くのが魔王復活の鍵とか)  早まったかもしれないと、わたしは座っているソファから腰を浮かせた。  わこ、わこ、と教えた名前を繰り返す彼は、悪いものには見えない。うっかり彼のペースに引き込まれて普通におしゃべりしていたけれど、気を許していいものではないというのに。 (名前教えちゃった……)  この手の物語で、人外に真名をとられてはいけないというのは定番中の定番だ。 「よし、憶えたよ」  ひふみとわこだね、と呟いた人外の心境やいかに。 (だから元カノと並べるなって。ん? 実は元カノじゃなくてオカルト現象の犠牲者だったりする?) 「ごちそうさまでした。じゃあわたし、食器洗わなきゃ……」  問いかけをなかったことにして、そそくさと席を立つ。 「名前はね、消えてしまったんだ」 「え」 (うわ、出た。中二病あるある! 名前を失ってたパターンだ!)  名前がないなら安心だろう。  わたしは物語での見聞をもとにそう判断した。 (真名がないなら、契約は成立しないはず)  あとから振り返ると、この思考が、わたしのほうこそ中二病全開で恥ずかしいけど、そのときは大まじめだ。 「なんで消えたの?」  悪行を働いて聖女に封印されたか、勇者に討伐されて魔王としての核が弱っているのか。 (いまは善人の面しか表に出ていないだけで実は……みたいな) 「昔ね、わこと同じようにわたしを見ることができる人間がいたんだ」  ああ、ひふみさんね。と思ったけれど、口は挟まない。案の定、彼が口にしたのはひふみさんの名前だった。 「ひふみといってね。ひふみがわたしに名前をつけたんだ。だけど、ひふみがこの世を去るとどうしてだか、名前も一緒に消えてしまった。何度も呼ばれていたはずなのにね。思い出そうとしても、その響きすら残っていないんだ」  淡々と語る口調に、悲壮感はない。 「そんなことあるの?」 「きっと役目を終えて、世界から消えてしまったのだろう」 「それはまた、切ないというか、なんというか」 「そういうものなのだろうね」  彼が感じているかもしれない痛みに寄り添うほど、わたしは彼に関心がなかった。それに、よく知りもしないのに、聞き手が勝手に憐れんだりするのも違うだろう。彼のあっさりした返事に、同情を求める色がなくてホッとする。 「だから、今度はわこがわたしの名前をつけるといい」 「へあ?」  己の薄情さになんとなくきまり悪くて視線を彷徨わせていたのに、彼はまっすぐにわたしを見ていたらしい。風向きが大変に危うい。人外に命名する? そのパターンも物語にはありきたりだ。 「え、やだよ。自分でつけたらいいじゃん」 「でも、呼ぶのはあなたでしょう? つまり使うのはあなただ。だったらあなたが呼びやすいものがよい」  常日頃から歯に衣着せぬものいいをするわけじゃない。揉め事は嫌いで、意外だろうけれど普段のわたしはいいたいことを我慢することのほうが多い。会社でも、小さく小さく目立たないようにひっそりと生きている。だけど、このマイペースさんにははっきりいわなきゃだめだ。はっきりいっても伝わるかどうかは彼次第。 「えええ……知らないよ……」  彼の人となりを知るわけでもない。どちら様なのかも不明。妖怪なのか幽霊なのか生霊なのかも不明。おばけじゃないってことしか知らない。 (というよりも、名前をつけたとて、すぐさようならでしょうに。それに……) 「名前がないって……。え、名前をつけた瞬間、変な契約とか結ばれないよね? 死後は魂を寄こせとか、名前をつけたとたん、神獣になっちゃうとか、覚醒するとか」 「あなたはわたしをなんだと思っているのか」  とても心外だと態度で示されたけれど、正体不明の未知の存在だから仕方ないじゃないか。  わたしは部屋の中央のソファに腰かけて、彼は部屋の入り口付近の床に正座をしていた。女性にしては長身のわたしよりもずっと背の高い彼だけど、ここではわたしのほうが目線が高い。彼と話すときには、右斜め下を向いて若干顎を引くことになる。この構図は初日に出来上がった。  成人男性の名づけなんて厄介だ。迷惑以外のなにものでもない。  彼の見た目は総合的に見て四十半ば。とはいえ、高い身長で着物をきれいに着こなす彼は、わたしの同級生よりも若々しい。 (立ち姿やお腹のでっぱりって、やっぱり人に与える印象に影響するんだなあ。こないだ同窓会で久々に会ったあの人、完全におっちゃんだったもん)  人の振り見て我が振り直せではないが、わたしは週一のヨガに加えて、週末のランニングを足すことにした。いまの体型で満足しているけれど、もうちょっと引き締めてもいいかもしれない。  話が逸れた。  着物の似合う大人の男性に与えられた命名権。わたしは非常に困った。 「うーん。うーん」  わざとらしく唸り声を上げて、彼が引き下がってくれるように期待する。ひとしきり唸ってみて顔を上げたら、彼は数分前と同じ表情でわたしを見ていた。冷静に観察されていたようで恥ずかしい。大根役者は人に注目されることに慣れていないのだ。  諦めたわたしは、テーブル上のノートパソコンを立ち上げた。 (うん。着物。着物から連想されるものにしよう)  わたしは、彼が身に着けているものから閃きを得ることにした。ウェブサイトで着物関連のページを漁り、用語を目で追い、辿り着いたのは日本の伝統色をまとめたサイトだった。そこから彼の着物の縞が、呉須色と空色鼠に近いなと学び、ビシッと締まってかっこいい帯が鉄紺と呼ばれる色なのでは、といきついた。少し賢くなったようで誇らしい。そんな寄り道をしながらも、最終的にわたしが気に入ったのが藍鼠だった。あいねずみと書いてあいねず。鼠とつくのは、江戸時代に流行った色らしい。  髪の色、目の色、顔色、細い手首、灰色系の着物、そして雰囲気。全体的な彼の特徴を色で表すのなら、藍鼠がちょうどだとピンときたのだ。 「え、これいい。素敵だよ」  ジッと動かずに正座をしていた彼が、瞬きのうちにわたしのすぐそばに立った。膝を屈めて、わたしが指さすノートパソコンの画面を覗きこんでいる。  よい仕事をしたと自信満々のわたしに、彼は始め、穏やかに頷きを返した。モニター画面での表示だから、実際の色はまた違うのかもしれないけれど、灰色に藍色を混ぜた上品な色見本は、彼の好みにも一致していたようだ。  すんなりいくかに見えた名づけだったけれど、彼にも好き嫌いはあったらしい。 「ね、いいよね。渋い大人の色って感じ。藍鼠って漢字の並びもかっこいいし」  色見本の横に表記された色の名前を読み上げる。わたしのあとを追うように、彼も画面の右側に視線を動かした。動かしたけれど、人語を操る彼でもさすがに文字は読めないらしい。 「そうなのかい?」 「うん。ほら、藍色の藍に鼠。いかにも和って感じ」 「……」 「え、なに、どうしたの」  穏やかな微笑みが一転、スンッと表情がなくなった。鼻から下しか見えないのに、こんなにも表情って伝わるものなのか。一瞬のことだ。 「ねずみというのは、あのねずみかい?」 「え?」 「暗い場所を好み、牙が大きく獰猛で、まんまるに肥え、なんでも齧って食するあの獣かい?」 「え、あ、ごめん。ねずみ嫌いだった? えっと、うん、世の中にはそんなねずみもいるかもね」  わたしが知るねずみは、世界的人気者の彼か、青いネコ型ロボットの天敵かだ。生きているねずみは、ハムスターしかお目にかかったことがない。  彼の憮然とした表情ったら見事なスン具合だった。大の大人が、ねずみと聞いただけで、顔面全部でのしかめっ面。もしかしたら彼も、寝ている間に耳を齧られたくちかもしれない。だから肌が青白いのか。 (確かに嫌いな動物名を名前に入れられたくないか)  藍鼠、わたしはかっこいいと思ったけれど、人が嫌がることはすべきでない。 「藍色って一つじゃないんだねえ。四十八もあるらしいよ」  藍という含みは残したくて、改めて藍色を調べた結果、白花に落ち着いた。藍鼠よりもずっと白っぽくなったけれど、四十八種ある藍色の中で彼のイメージに近く、かつ鼠がつかないのは白花色しかなかった。 「白い花と書いて、しらはな。どう?」 「わたしには可憐すぎる気もするが、まあよいか」 (もう眠いしこの辺で妥協してほしい) 「しらはな、ふむ……」  こんなやりとりがあって、彼は白花になった。ちなみに、白花と呼んでも、わたしの手首に呪術の茨模様が浮かび上がることもなかったし、彼が使い魔になることもなかった。少しがっかりした。  なお、職場へのつきまといについては、気苦労した割にあっけなかったことを書き加えておく。  名づけのあと、わたしはあくびをかみ殺しながら、食器を洗っていた。スポンジで洗剤を泡立てながら帰宅途中にしていた話を蒸し返したのだけれど、改めて具体的に問題点を訴えても、白花はいまいちピンと来ていなかった。  ――ううう……。一人でブツブツいっていたら、気がふれたと思われて会社を追い出されるう。  ――ひとりごとをいって村八分にあうのは、かわいそうだね。  ――ん?  ――わこが嫌がるならしないよ。  ――うん、わかってくれてありがとう。  もはやお手上げ状態でぼやいたら、彼はあっさり引き下がった。 (あれには、疲れたなあ……)
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