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「あの海老天、おいしかったよねえ~」
あとにも先にもあれほど立派な海老天に出会ったことはない。薄い衣に醤油ベースの甘だれがしみ込んでいて、白くてプリンプリンの海老の身は太くてギュッと繊維が詰まっていて、あの歯ごたえは最高だった。あれ以来、海老の揚げ物を見ると、どうしてもあの味を思い出す。怪奇現象への衝撃よりも勝る豪華な定食を提供してくれたあの店に感謝だ。
(白花の体を通り抜けたのが、店員さんのひじだけでよかったわ)
ごはんにそれをやられたら、さすがのわたしでも食欲は激減する。ちなみにわたしは、自他ともに認める大食いだ。白花からもよく、見ていて気持ちがいいといわれる。
「また同じことをいっているね。今日の海老はこれまた華奢だね。わこ、足りるのかい?」
「んふふ。冷蔵庫にキャラメル饅頭入ってるから大丈夫。スーパーの海老天なんてこんなもんよね。見た目も小さくていいから、衣を減らしてくれれば食べやすいのになあ」
値段を安く、見栄えを良く、両方を取ろうとしたらこうなるのも納得だけれど、このお値段で海老の大きさに文句をいう客なんてい……、うん、そうね、いるからこうなっちゃってるのか。後ろ半分が空洞の海鮮巻きしかり。わたしは無理して見栄えをよくしたものよりも、現物をちゃんと見せてくれるほうがありがたく感じる。その上で、高いやら安いやら判断したい。これも一消費者の意見なのだろう。
「適正価格が許されない世の中、恐るべし」
ただでさえ安いのにさらに二割引きになっていた惣菜をありがたく食べながら、明日は早めに起きて洗濯しなきゃなあと頭に留め置く。
「わこは、また難しいことを考えているねえ」
「そうかな」
「そうだよ。食べ物は食べ物だろうに」
ラグの端に正座して、白花が笑う。
白花の周りは常に穏やかな気で満ちている。マイペースなのは、出会ったときから変わらない。この五年、ずっと一緒にいるけれど、ピリピリしていることも不機嫌なこともまったくない。
おばけ(仮)の白花のつきまといをわたしがまあいっかと思えたのは、白花のこの性格にあった。わたしが霊感ゼロだから感じないだけかもしれないけれど、彼にはドロドロしたところもないし、怨念みたいな邪気も一切ない。わたしが知る誰よりもほんわかしていて、わたしはそんな白花といると、彼の気質に引っ張られる。引っ張られて、わたしまで穏やかな気持ちで過ごすことができた。要は、居心地がいい。
わたしが好きなわたしでいられるって、最高だ。
「キャラメル饅頭ね、いま流行っているらしいよ」
「そうなのかい?」
白花の前に天丼はない。飲み物を入れたマグカップも、わたしの前にしか置かれていない。
食事をしない彼と、一日あったことなんかを話しながら、のんびりごはんを食べる。これが我が家の団欒だ。
「さてと、お風呂に入って寝ますかな」
「明日はヨガの日だっけ?」
「うん、そう」
ヨガの予定を把握しているおばけって、おもしろいでしょう? わたしはいまでもふと笑ってしまうことがある。
出社前に整えておいたタオル一式を、パジャマと一緒に抱えて浴室に向かう。「行ってらっしゃい」と微笑む白花だけれど、わたしが湯船に浸かる日は彼も浴室までついてくる。
きれいな着物姿でね。裾を捲りもせず……って、そっちじゃないか。
当たり前のように浴室に現れたのはいつだったか。「お風呂入ってくるね」とちゃんと伝えていたにも関わらず、シャワーを浴びながらシャンプーを済ませて、目を開けたらわたしの背後に白花が立っていたのだ。どれほど驚いたが想像してみてほしい。驚きすぎて声も出ないわたしの裸を助平のように見るわけでもなく、白花はお湯を吹き出し続けるシャワーヘッドを興味深そうに観察していた。視線は間違いなくわたしの頭上に釘付けだった。
女性としてのプライドもへし折られ、何重もの意味で恥ずかしかったのに、白花は顔を真っ赤にして怒るわたしを見ても、首を傾げるだけだった。
(自分でいうのもなんだけど、引き締まったプロポーションだと思うのよ。お肌もきれいだしね)
お腹に入った縦筋は、わたしの自慢だ。誰にも見せない密かな自慢。いや、白花には何度も見られているけれど、これはもうカウントしない。
――風呂は、ひふみとゆっくり話す時間だったのだ。
――ひふみさん?
あのときは、いつも以上にパッパとシャワーを済ませて、わたしは髪も濡れたまま白花と向かい合っていた。二人とも床に正座だ。
――ひふみは風呂が好きでな、本当は一番湯を貰う立場だけれど、長湯したいから妹や母たちに先を譲るのだといってな。ゆっくり湯に浸かりながら、その日あったことなんかをわたしに話すのが楽しいといっていた。
本人に罪の自覚はないから申し開きともいえない話を聞くに、白花はわたしとものんびりおしゃべりするつもりで浴室に現れたらしい。ところが、わたしは湯船に浸かるでもなく、そして浴槽は空っぽだし、ずっと立ったままシャワーを浴びているものだから、声をかけづらかったのだそうな。黙って立っていたことではなく、それ以前のことを責めているのだけれど、ちっとも伝わっていない。
わたしの前に白花と一緒にいた人間の、ひふみさん。おばあちゃんみたいな名前だと思っていたけれど、白花が話すその人との思い出を聞いていると、実際ずいぶん昔の人なのだとわかる。話から伺える時代背景や、価値観なんかが、現代と異なるのだ。かといって、ある程度の文明はしっかりある。わたしは勝手に、江戸時代後期から明治くらいの人かなあと想像している。白花が正解を持っていないから、答え合わせは出来ないけれど。
温くなったら薪を足すけれど、日が暮れたあとに火を入れるのは大罪だから――と、持っている知識を嬉しそうに話す白花は、子どものようだ。
(一番湯ってことは、家長か。ひふみさんって女性じゃなくて男性だったのね)
――ひふみさんはどうだったか知らないけれど、わたしは異性に裸を見られるのは嫌よ。
――なぜ?
――恥ずかしいじゃないっ!
当然のことを告げたまでだけれど、人間でない彼に、わたしの羞恥心は理解してもらえなかった。わこは大多数の人間と同じ形をしていたぞ、と。ひふみは尻に大きなあざがあったけれど、わこはなかったから安心していい――って、ひふみさんまでとばっちりの事故だ。
わたしはシャワー派であること。シャワー派とは湯船に浸からない人種であること。わたしはカラスの行水で数分で浴室から出るから、白花とのんびりおしゃべりするような時間はないことを懇切丁寧に説明した。
わたしは、こうやって幾度も白花と擦り合わせを重ねてきた。わたしの当たり前が彼の当たり前じゃないから、ちゃんと嫌なことは口に出して伝えてきた。思えば、こうした手間をいままで付き合った人にはかけなかった。友だちにだってそう。嫌な顔をされるのが苦痛で、いつも呑みこんできた。
(白花は話を遮ったり、嫌な顔をしたりしないから、わたしが我慢すればいいレベルのことでもいっちゃうのよね。すっかり甘えてるわ……)
反対に、白花のほうからわたしになにかを求めることはなかった。あれをしたいこれをしたいといった些細な要望も含めて、一切なかった。ただわたしばかりが、わたしの習慣や価値観に彼が合わせるように求めてきた。白花はそれを嫌な顔もせず許してくれていた。
裸を見られたくない云々は、あまりに不思議そうにされるものだから、自分が自意識過剰な気がして、ひとまず棚の上にでも置いておくことにした。当時は、白花と一緒にい始めたばかりだったから、あれもこれもと精神的な負荷も大きかったのだ。
(まだ白花のことを、妖怪かなにかだと思っていたしなあ。そのうちいなくなると思っていたし。まさかこんなに長い間一緒にいて、ましてや好きになるなんて思わないじゃない)
それから数か月。冬に入って、あまりの寒さに湯を張った日。久しぶりの湯船に微睡むわたしの目の前に、白花は何食わぬ顔をして現れた。
懐かしいなあ――なんて、のほほんと微笑みながら。
白花にとって、人間は世界に溢れかえる生き物のうちの一つでしかない。わたしたちが犬をかわいがりつつも、動物の中の一つだと認識しているのと同じ。たとえ犬に洋服を着せても、シャンプーのときには脱がすし、犬が恥ずかしいなんて訴えても笑い飛ばすだろう。同じことだ。
ちなみに白花の着物は脱げないらしい。着物も含めて体の一部だという。外側を作っているだけだと聞いて、わたしは紙粘土の人形を連想した。輪切りにしたら空洞だ。怖い。
――決まった形を持たないし、いまわこに見えているものがすべてだよ。
着物の下の見えない部分は人の体ではないというのなら、確かに、裸が恥ずかしいとの感覚は生まれない。わたしの脳裏に、ぽよんぽよん跳ねる青のスライムが登場した。
裸足だけは特別で、長いこと試行錯誤して、草履を着脱できるようになったらしい。「どうして足だけ?」と聞くと、「ひふみが草履を飛ばして遊んでいたから、やってみたかった」と返ってきた。おばけかモンスターかわからない彼は、ときどきとてもピュアだ。そんなところが、かわいいなあと思う。
毎朝起きてしばらくすると、どこからともなく白花は現れる。
「仕事?」
「うん。とってもいい品が手に入ったよ」
驚くことに、白花は仕事をしていた。仕事をするのは人間だけだと思っていたのに、本当によくわからない。いや、おばけや妖怪にも仕事はあるかもしれないけれど。夜は墓場で運動会をするおばけもいるわけだし。あ、でも試験もなんにもないんだっけ。
「そうなの?」
「ほら、きれいだろう?」
白花の袖あたりから出てきたのは、つるんとした細い金属の管のようなもの。袖口からではなく、袖あたりから突然ものを取り出す白花は、マジシャンとしても食べていける。
「煙管?」
「おや、よく知っていたね。わこの周りでは見かけないというのに」
「知識としてね」
「そうか。わこはほんとうに物知りだ」
白花は年長者の余裕でわたしを褒めた。わたしは照れ隠しに頬の内側を軽くかむ。
煙管を乗せた手の袖口を逆の手で押さえつつ、白花が煙管の角度を変えてくれる。
白花の袖が捲れることはまずない。裾もそう。どんな強風でも乱れない髪の毛と同じ。それでも、袖口から覗く手首は、青白く細いけれど、わたしと比べれば太さがあるし、縦に長い手のひらを見ると、男性だなあと思う。
浮いた血管をなぞってみたいけれど、わたしは白花に触れることができない。触れようとすると、重なるはずの箇所が消える。画像編集ソフトで、白花だけを描いたワイヤーに消しゴムをかけたときみたいに、きれいにそこだけが消える。
「へえ。初めて見た。高級なペンみたい」
わたしが興味を示しても、白花が商品を貸してくれることはない。あくまでも見せるだけ。
わたしが触れるものに彼は触(ふ)れない。彼が触れるものにわたしは触(ふ)れない。
彼の手にわたしが近づきすぎると、白花はお預けをするみたいにそっと体を後ろに引く。「万が一取り込まれたら困るからね」と恐ろしいセリフでわたしを諭す彼は、けれども見せないという選択肢を選ばない。
彼がどこからか入手した戦利品をわたしに見せてくることは、そんなに珍しいことでもなかった。
(表情は変わらないのに、見て見てって副音声が聴こえる。自慢して見せびらかしたいとか、かわいいじゃないか)
あざとさを感じるのは、わたしの欲目だ。
白花が見せてくれるものは、現代ではあまりお目にかかることの少ない、骨董品やアンティークと呼ばれる部類のものが多かった。博物館のショーケースに並んでいるようなものたちだ。注釈をつけるのであれば、それらに古さや年季は刻まれていない。いまも現役で使われているかのような状態のものが多く、時を止めたまま時空を越えてとってきたかのようなちぐはぐな骨董品たちだ。この煙管も、小さな傷など使用感はあれど、比較的新しいものに見えた。
「あいかわらず不思議なものを集めてくるね」
気が済むまで観察したら、彼の手のひらに寄せていた顔を離す。
不意打ちで彼の手にキスをしたら、驚くだろうか。できないことは知っている。近づくことで彼の手は消えるにしても、手の上の煙管は残るだろうか。その煙管に、彼の体温は移っているだろうか。煙管越しに彼の体温を感じることは可能だろうか。
「質屋だからね」
「ふふっ。お疲れ様」
白花は睡眠を必要としない。食事もしない。
わたしが就寝すると姿を消すのは、当初から変わらない。ひふみさんと一緒にいたときにも、そうしていたらしい。
白花の基準はひふみさんだ。ひふみさんはこうしていた、ああしていた、と、なにかにつけてひふみさん。まったく、わたしが嫉妬深い勘違い女じゃなかったことに感謝してほしい。ひふみさんは人間代表じゃないけれど、白花にとって人間とは、ひふみさんだ。
「わこはこれから仕事かい?」
「うん。洗濯もできたし、明日は休みだし、いい日になりそう」
「そうか。よかったね」
にっこり微笑む彼の手に、煙管はすでにない。
(こうして朝からゆっくり話もできたしね)
工場で作業員をしていたというひふみさんは、なんと職場にも白花を同伴していたのだという。絶やすことなく炎を焚き続け、鉄を打つ音や怒鳴り声なんかが一日中反響する作業場で、ひふみさんは白花を話し相手に仕事をしていたらしい。
(お風呂の件といい、ひふみさん、おしゃべり好きすぎない?)
出会った当初職場についてくる白花に困らされたのは、ひふみさんが原因だ。ひふみさんが許していたことがなぜ駄目なのか、白花には難しかったのだろう。
ちなみにトイレについてきたことはない。これもきっとひふみさんが教育済み。
「じゃあ、いってくるね」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
玄関に行ってスニーカーを履く。出勤するわたしを、白花がまるでこの家の主みたいな顔で見送ってくれる。
(いってらっしゃいっていいなあ)
おかしな同居人だけれど、外出するときに見送ってもらえるのはなんだか心が温かくなる。
これが恋人や家族だったら、わたしが出たあとは二度寝したり、のんびり家で過ごしたりするのだけれど、白花はどうしているのだろう。
(コレクションの収集に励んでいるのかな)
わたしが不在のときに、白花があの家にいることはない。聞いたことはないけれど、確信があった。白花が用があるのは、家じゃなく、わたしだ。
――会社につくまでの間なら一緒にいてもいいよ、と何度かいいかけたことがある。
けれどいわない。きっと白花は、通勤時間も含めてついてこないで欲しいと勘違いしている。わかっているけれど、わたしはそこを訂正しない。
(だって、見送ってもらいたいじゃない)
気をつけてねの一言が、甘やかされているようにわたしを錯覚させるのだ。好きな人に甘やかしてもらえるのは、いくつになってもうれしい。
白花と一緒に居るのは、なにも家の周りだけじゃない。
旅行にだって一緒に行く。国内はもちろん、なんなら、海外にだって一緒に行った。飛行機に乗る人外も、保安検査場を通る人外も、なかなかにレアだと思う。
ちなみに飛行機は隣が空席だったことはないから、白花は通路に立っていることが多かった。そうなるとわたしとはおしゃべりができないから退屈らしく、たびたび姿を消していた。飛行機では寝ていたい派のわたしにはありがたい。
そういえば、二人で行った初めての海外はタイだった。旅行の手配中、自分もついてくる気満々で会話する白花に、わたしは彼の体を案じて留守番を命じたのだけれど……。
――え、え、海外なんて行って大丈夫!? 消えたりしない? 結界に阻まれて消滅したりとかしない!?
――わこのその認識は、なんなんだろうね。
目に見えない結界の存在を恐れて最後まで留守番を勧め続けたわたしの心配をよそに、白花は二泊三日もちろん勝手についてきたし、しっかり観光を楽しんでいた。タイの寺院にだって、普通に入れた。
(ふふっ、懐かしい。いつの間にか、『勝手についてくる』から、『一緒に行く』になってるんだもの。白花って、とんだ人たらしだわ)
白花との思い出はたくさんある。
そういえば、こんなやりとりもしたなあ。
タイの入国審査を無事に終えてバスを探す中で、白花が「彼はなにをいっていたのかい?」と怪訝な声を出したのだ。
「わこも難しい言葉を使っていたね」
「え、わからないの!? 英語だよ!」
「えいご」
「聞いたことあるでしょ。え、ないっけ? 確かに最近、邦画ばかり観ているけど……」
「彼らは人間の言葉を話さないのだね」
「ちょっと。なんて失礼なことを! 違うよ、彼らには彼らの国の言葉があるけれど、わたしたちにも伝わるように英語っていう世界共通語……人間共通語を話してくれてるの」
「人間共通語……」
「あ、ほら、海外のアーティストの曲なんかも、全部英語じゃない」
「ああ、わこがヨガをしながら聴いている歌のことかい? あれはなにかのまじないだと思っていたよ」
「え、わたしまじないを口ずさんでいると思われてたの? びっくりなんだけど。てっきり白花って、生きとし生けるものすべての言語を理解できるものだと思ってたよ。言葉はわからずとも、思念が伝わってくるとかないの?」
「わこは、夢見がちだねえ。どうして自分にできないことがわたしにできると思うんだい?」
なんと白花は日本語しかわからないらしい。質屋の取引相手の妖怪たちも、わたしたちと同じ日本語を話すというのだから驚きだ。
「わあ。生粋の日本のおばけだ」
「だから、わたしはおばけではないといっているだろう? わこは頑固だねえ」
郊外に向かうバスに揺られながら、隣に座る白花をジッと見つめる。白花は、「困った子だね」といいながら、心底呆れた顔をしていた。
「もしかしてわこ、わたしがあの辺の梢や花の言葉がわかると思ってはいないよね」
「思ってたよ……」
ショックだ、衝撃的だ。なんだろう、打ちのめされた気分だ。おばけも妖怪も八百万の神様も、言葉の壁が存在するのか。一気に万能さが失われた。
「わこは、どうがの見すぎだよ。わこがいつも観ているどうがは、あれは、ほとんどが作り話なんだよ。さんたくろうすと一緒だよ」
え、知ってるし。なんで人外に、創作物についてのネタ晴らしをされなくちゃいけないんだ。普通逆でしょう。かわいそうな子を相手にするようにいい聞かせてくれなくても、それくらいちゃんと理解している。
(ふふっ。あれからしばらくは、これは嘘だよ、こんなことはありえないよ、と、映画を観るたびにうるさかったなあ)
今週末も、電車を利用して二人で温泉宿に一泊してきた。全部屋に露天風呂と小さな庭がついたグレードの高いお宿だ。一人だとちょっと気後れして行きづらかった観光地も、白花が一緒だと楽しめる。ごはんも部屋食にしておいしいお刺身に舌鼓を打ち、日本酒を少量いただきながら、障子を全開にして、夜風にあたり月を眺めた。
「いやー贅沢」
「楽しいかい?」
「ええ、とっても。白花も楽しい?」
「わことお揃いだからね」
「ふふっ」
部屋に用意されていた浴衣は、藍色だった。たったそれだけで、白花は「同じだ」といって嬉しそうにしている。
「こんなに喜ぶなら、ここにしてよかったねえ」
「わこもいい顔をしているよ。明日も釜の炊き込みご飯がでるといいねえ」
旅行から帰った夜は、割引シールのついたお惣菜と決めている。
わたしは白花と話しながら、家の前を一度通り過ぎて、閉店間際のスーパーに立ち寄った。惣菜と飲み物だけをかごに入れてレジに並ぶわたしの横にはもちろん白花がいる。スーパーのLED電球の下よりも、自然光の下のほうが、着物の色は美しい。温泉宿の庭を散策する白花は、とてもきれいだった。
「ん? どうかしたかい?」
ジッと見つめていると、視線に気づいた白花がわたしを見下ろした。
こうしていると、普通の付き合っている恋人どうしに思える。当事者であるわたしが勘違いしそうになるほどだ。もしここに、白花を可視する第三者が現れたら、その人の目にもわたしたちは夫婦か恋人に見えるだろう。
わたしも自分たちのことをまるで内縁の夫婦みたいだと思うことがある。
強がった。夫婦みたいだとかいったけど、全然そうじゃない。実際は二次元への恋みたいなものだ。片方だけが浮かれている。
(――白花とは目が合わない)
白花の目もとは常にぼんやりしていて、わたしの目では彼の目を捉えることができない。なんとなくそこに目があるのだろうなあ、と認識が曖昧だ。
(そして、白花の背筋は常に伸びたまま)
誰かと話していて聞き取りづらかったりすると、人は相手に耳を傾けたり、身長差があれば背伸びしたり屈んだりする。わたしも白花に対して、無意識にそういった行動をしてしまう。
気づいたわたしはすごい観察力だと感心するばかりなのだけれど、どうも白花は耳で人の声を聴いていない。わたしの言葉はどんな独り言でも拾うし、雑踏の中にいても、どんな小さな声で語りかけても話を聞き間違うこともない。だけど。
(これは、ちょっと寂しいな)
穏やかな声音の白花が、どんな視線でわたしの名前を呼んでいるのか、知りたい。
「ん?」ってわたしの視線に気づいてくれたなら、その長身を屈めて顔を寄せてほしいし、内緒の話をするときに、わたしだって彼の耳に近づきたい。
許されるなら、そのまま口づけたい。
(まあ、無理なんだけど)
いまだって、本当はすぐそばにいる白花の手に指を絡ませたかった。
白花にこんな甘くも切ない想いを抱くようになるまでには、時間がかかった。それはそうだ。なんせ出会った相手はおばけだ。いうまでもなく互いに恋愛対象外。
恋愛対象外どころか、人とも認識していない存在を相手に、ゆっくり育んだ想いだ。
彼が背後霊よろしくわたしについてくることを渋々ながらも受け入れて、そのうち邪魔にならないからいいかと許して、彼との時間に居心地の良さを覚えるころには一緒にいるのが当たり前になった。段階を踏んで、日々を積み重ねて、わたしは白花を好きになった。
燃え上るような愛でも、ときめくような恋でもなくて、日常の延長に白花がいた。
(結婚してから生まれる愛もあるって、こないだ番組でおばあさんが話していたけれど、それに似てるのかなあ)
昨今はやりの契約婚も、そうなのかもしれない。
(そうだったら、素敵だな)
始まりがなんであれ、二人が結ばれるのであれば、素敵なことだ。
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