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仕事以外の時間は、白花と過ごす。白花がわたしのそばにいるから、自然とそうなっている。これが男女の関係なら、女冥利に尽きるのかもしれない。
(一方に選ぶ権利がなくても、そうなのかな)
白花がうちに来る前とあととで変わったことといえば、わたしが見た目をより一層気にして週末にランニングを始めたことだけ。同居人が増えたというのにわたしの生活パターンは、それ以外なにも変わっていない。
(合わせなくていいって、楽だわ)
わたしが世間体を気にしつつも、結婚に魅力を感じないのは、一つに、いまさら誰かと一緒に生活することの煩わしさがある。
最後に付き合っていた人と別れて、わたしは少しずつ少しずつ自分にとって暮らしやすい生活を整えてきた。白花に会った三十三歳のわたしはすでに一人が気楽だと感じていて、心地の良い暮らしを他人に壊されたくなかった。
(白花はわたしが嫌がることをしなかったもんなあ)
互いに合わせる必要がない白花との関係は楽だし、それが許される相手と過ごせるのは幸運だと思う。
「エルフの女王様、きれいだったねえ」
「そうだねえ」
パソコンの動画配信アプリで映画を見終わったわたしは、うんと伸びをしながら床に座る白花に話しかけた。
彼が床に正座をしているのは、彼の意思であって、決してわたしが強要しているわけではない。
大きな会社に勤めているにしては、狭い賃貸暮らしだ。
理想としては、1LDKくらい欲しい。貰っている給料を考えれば無理じゃないけれど、そうすると生活がカツカツになってしまう。平日は仕事、休日は旅行や習い事で家を空けているのだから、在宅時間を考えるとその運用はもったいない気がする。家賃をケチった結果、わたしは一人暮らしを始めてこのかた1Kにしか住んだことがない。ちなみにうちの階はみな、わたしよりも若い子たちばかりだ。
(まあ、一人で生きていくなら、備えは必要だしね)
玄関とキッチンが一緒になった廊下に、バストイレは別。独立洗面台の広さにはこだわった。あと窓の数。浴室にも独立洗面台にもちゃんと窓がついている。部屋は一つ。収納はクローゼットが一つ。
テレビは棚が邪魔で、いまの家に転居する際に処分した。代わりに購入したのが、一目ぼれした二人掛けのソファ。お高いのも納得のかわいらしさで、グレーの発色がよくてお気に入りだ。
家にいる間、わたしはだいたいこのソファに座っている。そして、白花はわたしから見て右側。床に敷いたラグの上に正座している。
(いつ見ても見事な良い姿勢)
このラグは、白花が一緒にいるようになってから購入した。アイボリーにダークグレーの曲線が描かれたアクリルラグだ。
わたしはカーペットやラグは掃除が面倒で、ずっとフローリングには何も敷かないようにしていたのだけれど、白花が床に正座をするものだから、思い切って取り入れてみた。
(座布団でもよかったけど、フローリングに直置きすると、ペット用みたいじゃない?)
絵面にするとソファに座る飼い主と座布団に座る大型犬みたいになりそうでいただけない。わたしの良心の問題だ。ラグ面積の都合上、白花が座る場所はドア付近から少し中心に近づいた。うちにいるのなら、隅にいてという最初の要望を律儀に守っているのか、隅に座る習性なのかはしらない。白花はいつも、ラグマットの角にいる。
「あんなきれいな人にお願いされたら、黄泉の番人もコロッとお願い聞いちゃいそうだよね。わたしなら聞いちゃう」
「ふふふ。わこに番人は務まらないね」
今夜二人で観ていたのは、恋人の危機を救うべく黄泉の世界の掟を破って人間界に戻ろうとする青年の話だった。黄泉の世界というと邦画っぽいけれど、これはヨーロッパの作品だった。主人公を助けるために、人外も登場するファンタジー映画。
わたしがパソコンで動画を観るとき、白花はいつもの定位置からパソコン画面を見ている。遠くないのかなと思うけれど、本人がよければわたしがいうことはない。
彼が日本語オンリーだと判明してからは、すべて吹き替え版だ。白花は意外にも映画好きだ。ふらりとどこかに消えることもなく、最初から最後までわたしと一緒に動画を観ている。
ノートパソコンも動画アプリも、多分ひふみさんが生きていた時代にはなかったはず。きっとテレビもなかったんじゃなかろうか。人間の歴史で見ても、ずいぶん最近登場した文明の利器は、祖父母世代でさえ抵抗を覚える人も多い。けれど白花は、こんなものがあるのだね、と受け入れているようだった。
これは白花の美点だと思う。わからないもの知らないもの、理解できないものに出会った際、白花はとりあえず人が使うところを観察している。これはなんだと聞いてくることもある。聞いてみてもわからなかったら、ひとまず呑みこむ。相手やものを疑ったり否定したり無暗に騒がない。自分が知らないだけで、そういうものがあるのだろう、とただ受け入れる。
わたしは白花のそういう柔軟なところを尊敬している。
白花のそれはひとえに、相手への許しでもあるように思うのだ。
わたしは勉強不足でうまく説明できないけれど、これはそういうものだと受け止めてほしい。そんなわがままを白花は許してくれる。
説明できないこと、相手を納得させられないことを寛容できない人は案外多い。論破という言葉がわたしは嫌いだ。わたしが子どものころに流行った、「で、オチは?」と同じくらい嫌い。
「あの男は死人だったのだろう?」
二時間近く同じ姿勢で映画を観ていたのに、白花の体は疲れ知らずだ。「うあー! ううー!」と低い奇声を上げながら体を伸ばすわたしを、穏やかに見つめている。相変わらず顔色は悪い。
「うん、最後は天使になったね」
「ひふみは、死んだら仏になるといっていた」
「信じるものは人それぞれだもんねえ。仏になる人もいれば、天使になる人もいるんじゃない?お国が違えば宗教も違うし、宗教が違えば神も違うし」
「神」
映画のような創作物になればまた違うだろう。スポンサーや方々への気遣いもいるだろうし、社会の目もあるし、という持論は黙っておく。
休み前ということで、すっかり夜更かししてしまった。画面右下の時計を見ると、日付が変わる直前だった。
「そ、神」
映画観賞中は、わたしも白花も無言だ。声も聞かず、顔も見ず、それでも自分以外の誰かの存在はちゃんとそこにあって、なんとなく気持ちが安らぐのだから不思議だ。白花と一緒にいるのはとても楽だし、心地いい。
(三十過ぎて変に心がざわざわしてたこともあったけど、あのとき無理して彼氏とか夫とか作らなくてよかったなあ)
お一人様を満喫しているわたしでも、独身の肩身の狭さに焦った時期がある。
わたしは一人が苦痛じゃないし、結婚しなくてもいいやって思っているけれど、隣の芝生は青く見えるものだ。職場は既婚者ばかりだし、古い体質で、未婚であることをとやかくいわれることもある。わたし自身、たまに寂しくなったり、これでいいのかと人生が不安になったりは当然ある。
白花はわたしの彼氏でも夫でもない。けれど、わたしがずっと、結婚するつもりはないといいながらもひた隠しにしてきた孤独を埋めてくれていた。
こうやって負担なく一緒にいてくれることで、大切なパートナーになっていた。
こうして同じ時間を共有して動画を観ながら、感想をいいあったりもできる。
白花がいるから、わたしは孤独じゃない。実際に孤独じゃないから、会社でモラハラまがいなことをいわれようと、セクハラ発言されようと、聞き流せる。わたし、充実していますけれど、なにか? と強くあれた。いびつかもしれないけれど、それがいまのわたし。
「さて、歯磨きでもして寝ようかな」
「神、であれば、わたしも神と呼ばれていたことがあるよ」
「へぁ?」
机のマグカップをとるために中腰になっていたわたしは、白花の不意打ちに動きを止めた。心に冷たいものが走り、息が詰まる。
「神?」
「ははは、すごい声がでたねえ」
「いやいやいや、え、神ってなに?」
「ずいぶん昔のことで、わたしもこの形でなかったときのことだから、記憶も薄れてきたけれど、神だと、そう呼ばれていたことがあるのだよ」
ふふんと誇らしげな白花の顔は青白い。
(え、貧乏神とか……?)
冗談を浮かべる余裕こそあれ、わたしは内心大きく動揺していた。
家族がいる人と変わりない。わたしには毎日一緒にいて、心許せる人がいるのだと自惚れたばかりだ。
瞬きの回数が増えたわたしを、下から白花が見上げている。目を覗こうとしても、認識がぼやけてよく見えない。それが悔しい。こんなに一緒に居るのに、わたしは彼の瞳を知らない。
わたしはソファに腰を戻して先を促した。
「もうずっとずっと昔のことだよ。人間はもっと小さくて骨ばっていたし、人間よりも獣たちのほうが強かったし数も多かった。森だらけでね、わたしも森の中にいた。わこは、猪がわかるだろう?」
「うん」
「前に訪れた神社で、猪の石像を、わこは大きいとはしゃいでいたけれど、あのころの彼らはあれよりももっと大きな猪でね。毛も長くて、牙も立派だった」
「こんなに」と、握りこぶしで振り子を振るようにして白花が牙の長さを教えてくれる。お遊戯を教える幼稚園の先生みたいで、半開きだった唇から息が漏れる。
「わたしは猪じゃなかったけれど、造形はとてもよく似ていたし、土地の猪たちよりもずっと大きかったんだ。あるときなにかを感じるといって森に入ってきた人間が現れてね。きちんとは捉えられないけれど、朧気にわたしの気配がわかったらしいよ。気がついたら、わたしは森の守り神だと崇められていた」
「いきなり?」
「そう、いきなり。姿を見られただけなのにね。気配だけで神聖なものだと急に崇められるようになった。食われそうになったこともあるよ」
「白花が?」
「うん。日照りが続いて生き物たちがバタバタ死んでいったときにね、それほど大きな獣が森にいるのなら、仕留めてみなで食おうって相談していたね。もっとも、すぐそばにいたわたしに気づかないくらいだ。守り神といわれていたはずが、戦の神だと崇められたこともあるし、神だったはずが、狼と対にされて神の使いになっていたこともあるね。一つも似ていなかったけれど、洞窟に絵を描かれたこともあるんだ。いまも昔も、わたしはわたしであって、己がなにかと宣言したわけではないのにね。そんなことをするのは人間ばかりだ」
白花の声音には、それを厭わしくする感情は乗っていなかった。ただ、不思議だねえと、他人事のように微笑んだ。
「神様だったことがあるっていうから、てっきり天界にでもおわしたのかと思っちゃった」
「さっきの天使みたいにかい?」
「そうそう」
「あんな雲の中に入ったことはないねえ」
「カラフルな雲だったねえ」
茶化すように誤魔化して、白花の笑い声を聞いて安心した。同じテンションで笑えてよかった。これで、冗談が冗談にならずに、天界がどういったところかを説明されたら心が折れる。
(だって、もしそこを説明出来たら、もう絶対に白花は人間じゃないじゃない)
猪の形をしていたという白花は、いま、わたしの目の前にいて、灰色の着物を粋に着こなして、姿勢よく正座しているのに。
「――人の認識一つで白花はなんにでもなるのかな」
人間でないと再三いいながら、どこかで人間に近いものだと思い込もうとしているわたしは愚かだ。白花を夫扱いしたいから、人間と結ばれる可能性のあるものだと思い込もうとしている。醜い醜い深層心理。
(遠いなあ)
口にする必要なんてないのに、心に止めておけなかった。面倒くさい女は嫌なのに、こうして一緒にいるのがあたりまえじゃないと突きつけられたような寂しさは、隠しきれなかった。
(そんなことないよ、わたしはわこと変わらないよ、なんて返事は絶対にないとわかっているのに)
「なるほど。所違えば、わたしも妖精と呼ばれていたかもしれないね」
白花は、映画に出てきたキャラクターを思い浮かべているのだろう。大真面目に腕を組んで斜め上を向いている。確かに、劇中の妖精も、限られた人間にしか目視できなかったけれど、イメージカラー藍鼠の妖精って、渋いなあ、もう。
「うふふ、妖精って!」
冗談をいっても、肩をぶつけ合って笑う関係にわたしたちはなれない。神様でも妖精でも、人間が触れることなんてできない。
(好きなのに。好きだから、白花が遠い存在なんだといわれて不安なのに……)
触れて存在を確かめることさえできない。触れようとしたら、そうです。あなたとは違う存在ですと肯定されるのだ。しかも、触れようとした場所が消えるという、最大の拒絶でもって。
「ドワーフならどう?」
「あんなにもじゃもじゃしていない」
「猪のときは?」
「……していた」
「あははっ」
白花は妖精かもしれないし、ドワーフかもしれない。日本にいるのだから、本当に神様なのなら八百万の神様のうちの一柱かもしれないし、本人は懐疑的だったけどおばけかもしれないし、妖怪かもしれない。
(前はふざけて話せていたのにな)
出会ったころは、そんなふうに軽くやりとりができた内容なのに、今はこの会話がつらい。できることなら聞きたくない。
白花がわたしと過ごして五年経つ。白花が人間じゃなくっていいよ。なんだっていいよと心の底からいいたい。思いたい。だって好きになった人だ。白花には白花のままでいてほしい。わたしとは違う存在なのかもなんて意識の外に追いやって、考えないことにして、白花が一緒にいるのがあたりまえであってほしい。
(だって、こっちに来たのは白花のほうでしょう?)
白花が人間だったらよかったのにな、わたしはそう思うようになっていた。
年が明けて、あっという間に二月。
年末年始は今年も白花と家で過ごした。実家に帰って肩身の狭い独女をするよりも、心許せる相手とのんびりしていたかった。先週は一緒に梅を見に行った。
とうとうわたしも今年、四十歳になる。
衣食住に困ることなく、自分の勤めで自分一人を養うことができている。会社も一部の人とは合わないけれど、それはみんな同じこと。習い事のヨガ教室はいい人が多いし、さらっとした付き合いがとても楽。休みの日には趣味の旅行を楽しんでいるし、気の置けない友人と出かけることもある。なによりも、白花がいる。
(だからわたしは幸せだ)
「あれ? やっぱ焦げ臭いよね。これもう駄目かなあ」
夕飯用に作り置きしていたおかずを温めていて、異臭に気がつく。
「どうしたんだい?」
「レンジの天井が焦げているみたいなの。出火したら怖いから買い替えなきゃ」
「おやおや」
今年に入って早々に、洗濯機の電源が入らなくなった。それに続いて今度はオーブンレンジ。どちらも十年ほど前に買い替えた、我が家の二代目家電だ。
大学進学と同時に一人暮らしを始めて、二十歳後半で数年彼氏と同棲をして、同棲解消とともに買い替えた家電製品たち。
「わこ?」
「……うん、なんでもない」
白花の視線から逃れるように、焦げ臭いレンジから皿を取り出す。惨めな顔した自分なんて見られたくない。
透き通った蕪は塩で炒めたシンプルなもの。同じ皿によそったご飯はひじきと炊き込んだ。おいしそうだ。
「おやまあ、これまた大盛りだねえ」
「ひじきご飯、三合炊いたからね。いただきまーす」
年始に洗濯機が壊れてから、わたしはちょっと気落ちしていた。
(家電二周目。つまりは、お独り様二周目)
こうして、自分しか使わない家電製品を、また十年後に買い替えて……。
(それを繰り返して、わたしは孤独に死ぬのだろう)
オーブンレンジは玄関までの配達だ。重たいねといいながら一緒に抱えてくれるパートナーは、わたしにはいない。
動画を流しながら食事をするわたしのそばには、今日も白花がいる。カチャカチャと鳴る食器は一人分。同じ部屋に二人いて、ソファは二人掛けなのに、そこに座るのも一人だけ。
動画を観ている白花を横目で盗み見る。青白い顔をして、今日もお手本のような正座は美しい。
隣に座りなよというのは簡単だ。出会ったころなら気負わずにいえただろう。
そこに正座する彼は、普通の男性だ。少なくともわたしの目には、白花は普通の人に映っている。透き通ってなんかいないし、足だってちゃんとある。他の人に見えないなんて、冗談みたいなのだ。だからこそ触れたい。触れられないことが、気がふれそうにつらい。
(透き通っているだけなら、手を合わせる真似事くらいはできたのにな……)
だからこそ。だからこそ、わたしは白花をソファのほうに誘わない。ひょっとした拍子に肩がぶつかりそうになるのが怖い。彼に実体がないのだと、突きつけられるのが怖い。どんなに近くに座っても触れることがないなんて、知りたくない。
互いに触れることができないことなんていまさらだ。触れることができないと確認したからこそ、白花を家にあげたのだから。だけどそれをいま、再確認することはとても怖い。
おおーなんてはしゃいで、実験感覚で指を出したころとは違うのだ。
(もうやだ。わたしずっと、こんなことばっかり考えてる……)
「わこ、やっぱり元気がないね」
「そんなことないよ、ありがとう」
(いいかげんしつこいって。考えても仕方のないことだってわかっているじゃない)
なんどもなんども自分に言い聞かせる。
考えちゃいけない。考えなければわたしは幸せだ。考えるな、考えるな。幸せなんだ。ただ、触れられないだけじゃないか。触れられないだけで、大好きな人がいつだってそばにいるじゃないか。白花はわたしにつきっきりだ。
彼氏と同棲しているあの子とどう違う? 婚姻届けは出さないだけで事実婚をしているあのタレントさんとどう違う?
――狂いそうだ。
朝、わたしが目覚めたとき、すでに部屋の中に白花がいることがある。そんなとき、白花はベッドから少し離れた場所にぼおっと立って、なにをするでもなくわたしを見ている。起きるように声をかけられたこともなければ、ベッドの端に腰かけていることもない。いつもの定位置で正座をしていることもあまりない。それは旅先でも同じだ。
(死神みたいだ。――とびきり優しい死神……)
「――おはよう、白花」
「おはよう、わこ」
先に声を出すのは、決まってわたしだ。白花はわたしの眠りを邪魔しない。考え事もそう。
遠い昔、早朝に出かける彼氏に頭を撫でられた記憶が蘇る。腕枕は痛くて嫌いだった。同棲している間、ずっとベッドを分けたかった。だけど、頭を撫でられるのは、好きだった。
(キスしてほしいなんていわないから、指先だけでも触れてみたい……)
布団から出した手をベッドの外に伸ばしかけていたことに気がつき、慌てて指先を丸めて隠した。寝ぼけた頭を振って、意味のない願いを消し飛ばす。
「体調はどうだい?」
「うん、平気よ、ありがとう」
白花は優しい。気落ちしている人間の相手なんて面倒なだけだろうに、変わらずにそばにいてくれる。
だけど、頭を撫でてくれることはない。
ビジネスホテルをチェックアウトして向かった先は、メーカー向けの生地を卸している市場だった。ここも観光地として有名だ。一般人も商品を手に取って見ることはできるけれど、生地を購入するには業者である証明書が必要となる。
「ここ、入ってみようか」
この地域には何度も訪れているから、帰りの飛行機までの時間つぶしに寄ってみた。店の中にはリサイクル着物を扱っている店もある。女性着物がほとんどだったけれど、白花も興味深そうに店内を覗いていた。
ときどき着物姿の人とすれ違うと、白花はわざわざ振り返って目で追っている。地元では着物なんてまず見ないから、珍しいのだろう。
(白花が人間なら、わたしも着付けを習って、お着物デビューして一緒に歩けるのにな)
勝手な話だ。
日曜日の観光地は騒がしい。場所柄、子どもはいないけれど、ざわざわしている。
「わこ、昨日の人間は来ないのかい?」
「あーうん。昨日だけの約束だったから」
チケット代も宿泊費も値が上がる土日にこうして県外に出たのは、友人に会うのが目的だった。
「人間は忙しいねえ」
「あはは。そうかもねえ」
八つ当たりにならないように、カラッと笑い飛ばす。
学生時代からの友人で、久しぶりに会いたいといわれてこうして彼女の住む都市まで出てきた。けれど、彼女のほうはまさかの子連れで引いてしまった。
子どもを連れてくるのなら、先に一言いってほしい。時間もお金も気持ちも使って来たのに、残念な気持ちしか残らなかった。土日の混雑した駅ビルで、子どもが入れそうな店を探し、やれおむつ替えだ、授乳だと一緒にベビールームを探し回り、やっと落ち着いて話せるかと思えば子どもの話ばかり。
――わこ、今日はあんまり食べないねえ。上に載っている緑の粉がよくないんじゃないかい?
白花が怪訝そうにしているのは、ロールケーキの上にふんだんに振られた抹茶パウダーだ。
(ふふっ、緑の粉って)
隣に白花がいてくれたのが、わたしにとっての救いだ。
(あんな無神経な人じゃなかったんだけどなあ)
わたし自身も気分転換したかったから、いつも以上に辛辣な気持ちになってしまう。
こちらが不快だから相手を不快にさせていいわけではない。不快な気持ちをひた隠し、友人の話をただただにこやかに聞き、お子さんにも話しかけ、まるで接待のような数時間。わたしはただただ苦痛だったけれど、彼女は楽しかったのだろうか。
昨日は一人友人を失って、人通りの多い夕方の商店街をぶらぶら当てもなく彷徨うわたしに、白花は黙ってついてきていた。愚痴りたくない、かといって明るくする気力はない。ホテルにチェックインしてからも、白花は普段通りで、いまのいままで友人のことに触れることもなかった。
(一晩は放っといてくれたんだろうなあ)
そういうところが一緒にいて気楽だ。
「じゃあ今日は、二人だね」
「ふふっ。いつも二人じゃない」
ほわほわした物言いに、ガチガチに凝っていた肩から力が抜けていく。白花といるのが、一番楽だ。なんどだって思う。
(白花が旦那さんだったらいいのにな)
わたしのこの想いさえなければ、わたしたちはとてもいい関係だ。
わたしの心は白花を、自分の夫や彼氏のように定めてしまっている。一種の依存だ。駄目だとわかっているのに、白花をそういう意味で好きになったらつらいのは自分なのに。頭と心は別物だ。
白花はある日突然わたしの前に現れた。わたしの意思はどこにもない。つまりは、いつ、ふらっと姿を消しても不思議じゃないのだ。
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