0人が本棚に入れています
本棚に追加
腕に抱いているぬくもりが小さく震えた。まるでむずかる赤子のような動きを、わたしは容赦なく押さえつけて再び抱き込む。形がないから、圧をかけすぎて霧散させてはいけない。力加減に、全神経を使う。
――これはわたしのものだ。渡しはしない。
抱き込んだぬくもりが逃げていかないように、世界に奪われないように。きつく抱いているうちに、わたしの両手は背中と癒着した。手の自由が効かなくなると、いざぬくもりが腕から飛び出したとき、追って捕まえることができない。わたしは、両膝を立ててしゃがみ込み、背中を丸めた。それから頭を低く下げて、体全体でぬくもりを抱え込んだ。
少しでも力を抜けば、隙間が生まれそうで、わたしはできるだけ小さく小さく体を丸めて、ぬくもりを隠して抱いていた。ずっとずっとそれだけをしていた。
いい商品が手に入ったと、知り合いが訪ねてくることもあった。わたしは顔を上げなかった。そんなことを繰り返していると、誰もわたしを訪ねてこなくなった。
脇をしめた両脇はあばらに癒着した。両膝は頭と癒着した。
人の形はとうに失っていた。苦労して維持成型していたひふみの形を、わたしは失っていた。小さく小さく丸く丸く、そうしているうちに硬くなった。わたしは岩になっていた。わこのぬくもりを抱き込むだけの、硬い岩になっていた。
(わこが好きだといっていた着物も形を保てなかった)
わこが死んで、わたしはまた一人になった。あれからしばらく経つが、やはりわたしと同じ種にあうことはない。わこがいなくなってから、質屋の真似事もやめた。そのせいで、同じではなくてもわたしに似たものたちに会うこともなくなった。
わことどうがを観るうちに気がづいたが、彼らこそが、わこや人間のいう妖怪や物の怪だった。まったく同じではないが、概念としては似ている。わたしもそれに当てはまる気もするが、自分のことになるとてんでよくわからない。
――万物には神が宿るの。八百万の神様っていうのよ。
わこは、彼女の空想も含めて、世界にいるかいないかわからないものに詳しかったけれど、わたしの種を断言することはできなかった。
わたしが人間の物を集めていたのは、骨を拾ってほしいと、ひふみがいったからだ。
いっておきながら、ひふみは骨を残さなかった。
ひふみは鉄の塊と一緒に熔けて、なにも残さなかった。あんな死にかたをしたがるのは、人間だけだ。ひふみも人間なのだなあと思った。
ひふみの死後、なんとなく覗いた彼の故郷は、家も町も仕事場も、全部灰になっていた。ひふみが、勤めが終わったら結婚して子を成すのだと話していた婚約者の家もなかった。しかたがないから、生前ひふみが持っていたようなものを、集めてやった。わたしはそれを、一等見晴らしの良い丘においてやった。ひふみが大切にしていた墓参りの真似事だ。
海と空しか見えないような丘の先。山育ちのひふみは海に憧れを抱いていたから、そうしてやった。大抵は、人間のものに執着する鬼や物の怪たちから譲ってもらった。
そういえば、鉄の指輪を妖から譲り受けたとき、わたしはほんの気まぐれでわこにも見せてやった。興味深そうにわたしの手のひらのそれを覗いたわこは、「わあ、きれいな指貫!」と目を輝かせた。
――ゆびぬきかい?
――違った? お裁縫のときに使うの。これどうしたの? **、お裁縫するの?
キラキラした瞳で期待するようにわたしを見上げる。気分を良くした私は、それからもたびたび入手したものをわこに見せてやるようになった。わこはそのたびに、背伸びするようにわたしの手のひらの中のものを覗きこんだ。
――そっか。質屋さんみたいだねえ。
わこはそういったけれど、多分わたしのしていることはただのもの集めだ。初めて観たじだいげきに質屋が登場したとき、わたしと同じ種に会えるのかとわくわくしたものだけれど、わたしは金貸しではない。まずわたし自身が金銭を持っていない。
わこが歳をとってあまり動かなくなってから、わたしはものを集めることをやめた。日に日に弱っていくわこのそばにずっといた。昼間でもうつらうつらし、あんなに睡眠にこだわっていたわこが夜間でも目を覚ましていたり、昼間も目を覚まさなかったり、わこの体内時計は彼女が衰弱するたびに狂っていった。わたしはそんなわこから、ひとときも離れたくなかった。
わたしの時間を全部費やしてわこに合わせようとした。それでもなお、起きているときでさえ、わたしと話せるわこの時間は減っていった。あんなに食べることが好きなわこが、食事を受けつけなくなったとき、わたしはわこの死を悟った。
――わこは死ぬんだね。
――ふふっ。あまりそういうことは、はっきりいわないものよ。
弱っていても、わこはずっとわこだった。
痛いとか苦しいとか、そういう一切の弱音を、わこは吐かなかった。
どうがの人間たちは老いも若きも、善人も悪人も、みなが救ってほしそうにしていた。横になるだけの生活になろうとも、延命に必死になって、えいがのあくやくは永遠の命にこだわって自滅した。わたしはわこと、数えきれないくらいのどうがを観たから、詳しいのだ。
わこはたくさんどうがを観るくせに、医者に行くことさえ拒んだ。
わこももっと足掻けばいいのに、わこはあっさり死を受け入れていた。そんな登場人物は、どうがの中にはいなかった。
――**は映画の見過ぎね。人間誰もが不老不死を願うわけじゃないのよ。
わたしが観たえいがは、一つ残らずわこが観たものだったのに、わこはおかしなことをいう。
わこのベッドの枕元には、わたし用の木の椅子が置いてあった。リビングの机と二脚の椅子は、わこがこだわりにこだわり抜いて選んだ、家具職人の作品だ。そのうちの一脚は、わこの寝室のベッド横に、もう一脚は、リビングに置かれたままになっている。一生使うと嬉しそうにしていたのは、ついこないだのことのようなのに、ベッドの上のわこは、確かに歳をとっていた。
――わこも、病院に入院するのかい?
わこと一緒に、ぱたーんだとか、物語のお決まりやお約束を語り合えるほど、わたしはえいが通になった。わこみたいな人間は、病院か施設にいるものだった。
――しないよ。そんなことしたら、白花と話せなくなるじゃない。
そういって笑ったわこは、最期まで頑固だった。
――病院に行けば、治るかもしれないよ。
――ふふっ。変な**。寿命っていうのは病気じゃないでしょう? 動物っていうのは、自分で餌を捕れなくなれば死ぬものなの。体が死に近づけば、食事を摂らなくなるものなの。
――でもね、わこ。
――わたしはここであなたといたいの。わたしの優先順位は、決まっているの。
ひふみは人間独特の死にかたを選び、わこは生き物共通の死にかたを選んだ。
――**、ここにいてね。あと少しだから、そばにいてね。
安らかな表情さえ浮かべてわこがいう。わたしはわこがこの世にいるあいだは一緒にいると前に伝えたはずなのに、若いころのことをわこは忘れてしまったのだろうか。痴呆かなと、わこにいったら激怒されるに違いないことを思うも、わこのそれは念を押しているだけのようだった。
わこが死んだあとは、ひふみのものもわこのものも集めようとは思わなかった。わたしは死んだわこが妹に引き取られ、体が燃やされるのを見ていた。ひふみのときとは違って、わこの持ち物は、彼女が骨だけになっても世界に残されていた。だけどどれも欲しいとは思わなかった。
わこのいう、思い出の詰まったものたちとやらは、溢れるほどに存在したのに、不思議なものだ。
なに一つ惜しいものも気にかかるものもなかったから、わこが死んでしばらくは、わこの家の存在さえ忘れていたほどだ。えいがによく出てきた遺品というものをふと思い出してわこが暮らしていた家にふらりと行ってみたときにはもう、わこのものはなに一つそこになかった。そこにはすでに、ほかの人間たちが暮らしていた。わこは子孫を残さなかったから、わことはまったく無関係の、血のつながりもない人間たちだ。ぱそこんに、わこの椅子。あれも燃やされたのだろうか。
わこが若いときに暮らしていた家にも行ってみた。外観が変わっていて、わたしは外から眺めただけで興味を失った。
話し相手を失って彷徨い歩くわたしの胸元には、ぬくもりがあった。
燃えるわこの体から浮き出てきたぬくもりだ。人間に限らず、生き物が死ぬと必ず一つ出てくる。ひふみやわこはそれを魂だといっていた。
ひふみのときにもあった。燃え上る鉄の塊から激しく上方に飛び出していった。わたしはそれを見送った。
わこのぬくもりは、わたしが呑みこんだ。そうすることが正しいような気がした。とくに考えることなく、わたしの中に取り込んでしまおうと呑んだのに、わこのぬくもりはわたしの体から出た。
なんど呑みこんでも、わたしの体内から弾かれるように出てしまう。
――水と油だね。
わこの言葉が蘇る。わこは揚げ物が大好物だったから、ぬくもりまで油で包まれてしまったのかもしれない。
本物のひふみの着物のように、わたしの袖や襟にものが入れられたらよかった。わたしの形は、ひふみを模して造ったものだ。残念ながら機能までは再現できなかった。わたしは草履を操ってみたかったから、それに合わせて着物も模すことにしたのだが、付属品を足すことによって難易度が上がり、なんども失敗した。そのたびにわたしは化け物のような見た目になった。
わこに会ったとき、造形がある程度完成していたのは幸いだった。もしあのとき、わたしが化け物の形をしていたら、わこは逃げ出しただろう。わこはほらーが苦手なのだ。それに、わこはわたしの着物が好きだった。歳をとってからは、わこも着物を着て生活をしていた。
記憶を頼りに造った体だ。わこに出会ったころは、おかしいところはないか毎晩確認が必要だった。顔見知りの妖たちに見てもらったこともある。変形したりしておかしなところは、都度練り直して調整していた。
わこの体が燃えていく。ぬくもりはなんどだって、ぽこんとわたしの体を飛び出した。
なんどもなんども、呑みこんでは飛び出してくるものを掴まえてを繰り返した。わこは、ぬくもりまで意地っ張りで頑固だ。
呑みこんでしまえればよかったのに、それはできなかった。えいがで見た化け物を真似して、いっそ取り込めないかと考えたけれど、わたしにそんな能力はなかった。
だからわたしは、わこのぬくもりを右手で掴まえて、胸元に押さえつけておく必要があった。
世界から呼ばれているのか、ぬくもりは常にどこかに行きたがっていた。そんなところも、わこだった。
微睡みの中で、繰り返し繰り返しわことの思い出を振り返る。繰り返さないと記憶が薄れてしまう。ひふみとの記憶が以前よりもずいぶん減ってしまったように、わたしも人間と同じように、古いものから記憶は消えていく。
わこが死んでから、わたしはあえて新しい経験を積まないようにしていた。新たに記憶することなどないのに、古いものは世界に整理されていく。
(ああ、このわこは、ずいぶん若いね)
思い出される記憶は、片っ端から振り返った。胸のぬくもりを抱き込んで、わたしは過去に浸っていた。それが心地よかった。
わこはいつも笑っていたけれど、巡る四季のように定期的におかしくなる時期があった。おしゃべりなひふみも、人が変わったかのように無口になる時期があったから、人間とはそういう生き物なのだろう。年によって裏表のある果樹のようだ。
蘇る記憶は不鮮明で、視界は狭い。わたしの記憶もどうがにしてくれればいいのにといえば、わこは笑うだろうか。
記憶の中のわたしは、わこが若いときに住んでいた家にいた。
(ああ、このときも、わこがおかしくなったのだ)
あまり笑わなくなり、口数も減った。
わこという人間は、わたしからすると、弱くて脆くて、いつも考え込んでいる生き物だった。同じ人間でも、ひふみのようにあっさりしていない。ものを見たまま判断するひふみは、わたしに近い。わこは、目の前のものを手に取っては、ひっくり返したり覗きこんでみたり、わざわざ割って中身を確かめようとする。そして、あれこれ考えて落ち込んでしまう、複雑な生き物だ。
「レンジ、買い替えなくちゃね」
そのときも、四角い箱を覗きこんで、わこは明らかに気落ちしていた。レンジという、食材を温める道具だ。毎日使っていたくらいだから、よほど大切なものだったのだろう。
ひふみも衣装を入れる家財道具が壊れたことがある。父親から引き継いだもので大切にしていたが、引き出しの角が欠けてしまった。そのときの彼は、「あちゃー」と天を仰いで、翌日には大工道具を抱えていた。鏡を割ったひふみの妹たちもそんなふうだった。おなごは難しいのだよとひふみはよく話していたが、雄雌の差ではなく個体差なのだろう。
物はいつか壊れるというのに、こんなに落ち込んで。わこは、よくいままで生きてこられたものだと思う。
「どれにしようか」
わこはいつも、ソファと呼ぶ弾力のある腰かけの同じ位置に座っていた。正面には、低い机とぱそこん。食事をするとき以外は、ずっとぱそこんがわこの目の前にある。ぱそこんとは、なんでもできる道具らしい。わこは時間が空くとずっとそれに触れていた。
このぱそこんが壊れたら、きっとレンジが壊れた比ではない。わこは悲しい気持ちに押しつぶされて、彼女のほうこそ壊れてしまうかもしれない。
「こっちが安いかな。あ、でも白しかないのかあ……」
安価なものに手を出して、すぐに壊れたらわこがまた悲しむだろうから、その選択が潰えて安堵とする。わことわたしは、こんなふうにして一緒にぱそこん画面を覗くことが多かった。
「あ、これがいいかも。光沢がなくてかわいい。ね、どうかな」
「いいんじゃないかな」
使うのはわこだ。わこが良しとするものがいい。わたしはわこの指先ではなく、わこの表情から判断して、頷いた。
レンジはわこが休みの日に届いた。
「開け方がわからない……」
「開かないのかい?」
「梱包材ミチミチで、手を入れる隙間がないの。段ボール、破くしかないか」
大きな箱を前に、わこがうんうん唸る。一通りうんうん唸って、厚みのある箱に刃物をあてると、大胆にも解体してしまった。展開された箱で廊下が塞がれて、わこ自身も動きづらそうにしている。
「失敗した。先に古い電子レンジ下ろしとくべきだった……」
「おやまあ」
わこが切り開いた箱の一辺を持ち、中身が入ったままのそれをズルズルと玄関のほうに引きづっていく。あれほど苦労して冷蔵庫の前にまで運んだのに、元の場所に戻すようだ。
わこがしたいことがわからないから、わたしは彼女の動きを眺めるだけだ。
わこは、あれをやってこれをやって、やっぱりまた最初に戻ってということをよくする。あまり要領が良くない。
買い物に行くとそれが顕著だ。野菜を買って、肉を買って、弁当を買って、また野菜を買いに戻る。旅に出れば、さっきもここを通ったなあということがよくある。迷ったのかと聞くと、迷っていないと不思議そうにする。
いまも床に刃物が置いてある。きっとこれも、次の作業に移る前に箱と一緒に避けておくべきものだ。玄関に落ちている履物は、いまこそ履いておくべきだ。
「わこ、これは……」
「せーのっ……!」
わたしが刃物に気を取られている間に、わこは壊れたほうのレンジを持ち上げようとしていた。食材を保管する冷蔵庫の上から、レンジをどかしたいようだった。
「っ、よっ!」
声だけは出ているが、腰骨を逆に折りそうなほど、体が反ってしまっている。重たいらしく、真っ赤な顔でよろよろと後ろ向きに歩く姿には、不安しかない。
「わこ、どこに運ぶんだい?」
「……」
わたしが見かねて声をかけるも、わこは返事もできない。結局そこから数歩下がって、わこは息を詰めたままその場にレンジを下した。足元に置いたままの刃物は、わたしが除けておいた。
(恐ろしい)
制御不能な重量のものを持ち上げておきながら、進行方向の確認もしないのだ。わこは、こういうことにこそ思考を使うべきだと思う。
しゃがみこんで息を整えるわこは、このあとどうするつもりなのだろう。廊下に二つも大きな荷物を置いてしまって、すでにわこが自由に歩くだけの広さはなくなっている。きっと玄関のほうにある、新品のレンジを冷蔵庫の上に運びたいのだろうに、動線上に自ら障害物を設置してしまっている。
(まったく、仕方がないね)
わたしは、ほかの生き物たちの手伝いはしないことにしている。同族をいまだ知らないわたしという種は、食物連鎖の中にない。
「発泡スチロール、はまりすぎだって……」
また新たな壁にぶつかったらしいわこの横に並ぶ。
「わこ、次に持ち上げたときには、わたしが少し力を貸すからね」
「え、いいの?」
「その前に、あの刃物は踏まない場所に移動させたほうがよくないかい?」
「あ、ほんとだ。危ない。カッター置きっぱだった。白花、教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
素直に刃物を回収するわこは、刃物を置いたはずの位置がわずかにずれていても疑わない。
わたしはその辺を漂っているものを固めて、わこが持ち上げたレンジの底に向けて負荷をかけた。「軽くなった!」と声を上げたわこは、とても嬉しそうにしていた。
わこといるのは楽しい。ひふみといたころを思い出す。
わたしは、もうずっと長いことこの地にいる。個として存在する前のことも、朧気ながら記憶にある。
わたしという個となってからは、その辺をただただ漂った。乾いた砂と短い草でなった地が、重なり合う枝葉で日光を遮るほどの大木の森になるころ、わたしは形というものに興味を持った。見よう見真似でその辺のものを模しては崩し、徐々に形を得た。小さな獣に始まり、わたしという意思がしっかりしたころには、猪に似た大きな獣の形を造ることに成功していた。
形こそ猪に似ていたが、森に棲息する獣たちにわたしの姿は見えないようだった。だが存在は感じるらしく、わたしが近づけばみなが逃げていく。そのくせなぜかみな、わたしのそばで仔や卵を産んだ。たまにぼんやりとわたしを目で追う生き物もいた。大きな獲物だと喜び狩ろうとしてきた熊もいた。わこに話したように、わたしを神だと崇めてきた人間もいた。しかし、雨が降らないことをわたしのせいにして、わたしを討伐せんとしたのもまた人間の集団だった。
わたしはずっと、この地の繰り返しを眺めてきた。陽が入らず暗かった森は、みるみるうちに拓かれて、体の大きな生き物は減り、小さな生き物が増えた。猪、狼、人間と、森の支配者はどんどん小さくなった。そして最後に勝ち残った人間たちも、森を呑み込んだ炎に焼かれて死んだ。森は、乾いた砂に戻った。
静けさが続き、ようやく地に生命を感じるようになってしばらく、元通りとまではいかないまでも育った森は、またも人間たちが放った炎で灰になった。体の大きな獣たちは姿を消した。そのころには、わたしを神に祭り上げた人間たちも血の末までなくなっていたから、猪をやめた。なにかを模すには、定期的な微調整が必要で、面倒になっていたからちょうどよかった。
そうしてしばらく。三度目は、炎が空から降ってきて、地面を抉った。
いい加減に煩わしくて、わたしは初めて森を出た。焼けた森の外にいたのは、遠い昔にわたしを神だと崇めていた人間とは微妙に色や形が違っていた。犬どももずいぶん小さくなっていたが、鼠は昔と変わらず丸々と肥えていた。
――おや、物の怪がいるね。
森の外に、異臭を放つ煙突を見つけた。それは、森に降ってきた炎のにおいに似ていた。根元から引っこ抜いてやろうと近づいたそこに、煤で顔を黒くしたひふみがいた。
(ひふみはわこと違って、最初からたくさん話しかけてきたなあ……)
元気じゃなかったはずなのに、大げさなくらいはしゃぐわこの姿が朧げになり、場面が変わる。
水深の浅い幅広の川には、大小さまざまの岩が水面から顔を覗かせていた。
「旦那、旦那の飼っている人間、ずいぶん弱ってましたぜ。死んじまうかも」
「ん?」
取引を終え、受け取った品物を呑み込んでいると、そろばんを腰に引っかけた石に呼び止められた。河原に落ちている平たく白っぽい石は、石としか紹介しようがない。わたしの手のひらに乗るほどの寸法で、そろばんのほうが倍大きい。
わたしを呼び止めた彼も、さっさと姿を消した今日の取引相手も、わたしと同じ、食物連鎖から外れた存在だ。ひふみが死んで以降、彼らのような存在に出会うことが増えた。彼らもわたしと同じで、彼らと意思疎通を交わせた生き物が死ぬと、不思議と自分と似た境遇のなにかに出会うようになったという。
彼らとの会話は、わこと話すときと同じように互いの声だ。わこが期待する念話はわたしには不可能だ。
わこはちょっと考えが足りないところがあった。
わたしのことも、なんだと思っているのか、初めのころは「世界征服しようとか思う?」「実は背中に翼があったりする?」など支離滅裂な問いかけをたびたびしてきた。長じてからも、「**、天候を操れたりする?」などと、無茶なことをわたしに期待した。
「腹を抱えて蹲って、人間どもに囲まれていましたぜ」
「おや、それはどうしたのだろうね」
石に礼を伝えて、わこのいる場所を探る。仕事場にあるはずのわこの気配は、彼女の家のすぐそばにあった。
(おやおや、どうしたことかね)
最近とくにぼんやりしていることの多いわこは、昨夜も眠れなかったのか、今朝も口数が少なかった。かと思えば、「朝からロイヤルミルクティー淹れてみた~」と笑う。短い周期で性格を極端に変えるから、疲れるのだ。わこはもっと落ち着いたらいい。
「――すみません。ご迷惑をおかけしました」
「――」
「はい、ありがとうございます。はい、では失礼します」
わたしがわこの家についたとき、ちょうどわこも帰宅したようで、頭を下げながら建物の入口で車を見送っているところだった。車の中には人間の雄がいるが、彼になにかをされたわけではなさそうだ。
「……ああーっ……」
弱っているようにも、死んでしまいそうにも見えない。わたしはわこと一緒に家に入った。
わたしの存在に気づきもせずに、家の内側から潜むように鍵をかけると、わこは奇行に走った。握ったままのどあのぶに額を押しつけて、唸り始めたのだ。数日前に観た、狼男のようだ。数度繰り返して、始まりと同じように、わこは突然ピタリと唸るのを止めた。
「……はあーっ……」
止めたと思ったら、今度は大きく息を吐き出している。腹の底から悪いものを押し出すように、どもった声も一緒に出している。そこでようやく、これは奇行ではなくため息らしいと気がついた。
ひふみはしょっちゅうため息をついていたけれど、わこは珍しい。
――ため息をつく自分が嫌いなの。
深呼吸をするわこを思い出す。
ひふみはたくさんわたしに愚痴を聞かせた。そして、すっきりしたといっては、また別の話をした。
わこは頑固だった。どうがに出てくる偏屈な哲学者みたいで、わたしがそう感じるだけじゃなくて、きっと同じ人間から見ても、わこはちょっと変わっているのだろうなあと思う。
――わこも愚痴をいうかい?
――それって、結局わたしが一番聞くことになるじゃない。いやよ、どうしてわざわざ自分の愚痴を自分で聞かなきゃならないの。どうせ自分の声を聞くのなら、ポジティブな話を聞きたいじゃない。
わたしは廊下に立って、体を丸めたわこを眺めていた。
わこは本人のいうとおり、愚痴をいうことはなかったし、大きな怪我をしたときにも弱音を吐くことはなかった。
代わりに、おかしなことをよくいった。どうしてそういう思考になるのかわからないことを、よくいった。死ぬ前もそうだった。死の数日前、わこはあとは死ぬだけだからと、業者を呼んで家の中のものを片づけさせた。必要だと残したものは、ベッドや例の椅子などわずかだった。
――わこは、自分がいつ死ぬのかわかるのかい?
――うふふ、また**がおかしなことをいってる。わかるわけないじゃない。
――家の中が空っぽになったよ。いいのかい?
――立つ鳥は跡を濁さないの。それに、必要なものは最期までそばにあるから、大丈夫。**がいてくれるから、それでいいよ。
(わこはずっと考えているからね。たくさんたくさん考えているから、思考の波に溺れてしまわないようにわたしがそばにいてやらなくては)
わこがそういう生き物だと理解してからは、考えすぎで考え足らずなわこがおかしな方向に走らないように、わたしが見守った。まっどさいえんてぃすとにならないように、見張ってあげた。
――ねえ、**。わたし、幸せよ。一緒にいてくれてありがとう。
眠るように息を引き取ったわこの表情を思い浮かべつつ胸元にぬくもりを抱えて、最後に覗いたのが、わこに出会った岬だった。
ここに辿り着いたのは偶然だった。たまたま強い風が吹いていて、風に乗ってみたらここに着いた。
わこに出会った場所は、台風の被害を受けて壊滅状態だった。
――朱色の鳥居がかわいいー。
わこが気に入っていた低い鳥居も一つも残っていない。いくら海風を直接受ける土地とはいえ、ここまで根こそぎやられるものだろうか。
――天罰だ。
わこの声が蘇る。
――こんな神聖な場所にポイ捨てするなんて、わたしが神様なら参拝者に天罰を与えるわね。
絶対に神ではないわこが、胸を張る。
――わこが神様かい?
――ときどき考えるの。こういうポイ捨てってよく見かけるでしょう? わたしが魔法使いなら、ポイ捨てした人の家にこのままのごみをお届けするのにって、いつも思うの。
――うん。魔法使いかい?
(わこ、これは天罰かい?)
いいや、わこならきっと、この惨状を見たら怪獣が暴れまわったんだというだろう。わこは想像力が逞しい人間だった。実在しない生き物を頻繁に会話に登場させた。大鷲に乗って世界を旅してみたいと聞いたときには、わたしは本気か冗談か、わこの真意を探ったほどだ。
――グリフォンみたいな。あ、でも、竜でもいいな。ドラゴンのほうね。
――わこ、どちらも空想の生き物なんだよ?
――わかってるよっ!
なんとなく後ろを振り返ってみる。わこを追いかけた坂道の先に、仰々しい柵が打ちつけてある。きっとここは立ち入り禁止区域なのだろう。こういった知識も、わこと過ごすうちに身についた。わこは生涯、先週はあちら、今週はこちらへとしょっちゅう旅をした。
岬の先端は災害の爪痕がしっかり残っていた。折れた竹が何本も重なり合って小山になっている。ぺしゃんこに潰れているものが気になって近づく。
――チカッ
折り重なった竹と木材の奥から、藍色の光が見えた。
(おや、懐かしいね)
わたしにとってはそう遠くない昔、ひふみが死んですぐのころに入手した硝子の根付が転がっていた。
(おや、いけないよ)
ちょうどそのとき、胸元のぬくもりが揺れて、またどこかからの呼びかけに反応しようとしていた。
(大人しくしておいで)
これはわこであって、わこではないけれど、そう告げて、胸にぎゅっと押し込む。
押し込むついでにわたしはその場に腰を下ろした。動く気も湧かず、しばらくそこにいた。周囲のものがことごとく崩れたり吹き飛んだりして見通しが良い。わこが好きな青空が、上空に広がっていた。ひふみが好きな海から、打ちつける波の音が聴こえていた。
胸元に押さえつけたぬくもりを、弾けて霧散しない程度の力でわたしの体にめり込ませる。
いつか世界に奪われるだろうか。
わたしが世界の意思に反するのは、これが初めてだった。
わたしもいつかは力尽くだろう。わたしの知る限り、生き物はみな死ぬのだ。それが世界だ。
このぬくもりを奪うのは、わたしが死んでからにしてほしい。一度奪われてしまえば、追って取り戻すことはできない。岩になったわたしが、どう動けるというのだ。
これを奪われたら、きっとわたしは狂ってしまう。いまだって、世界に逆らい執着して、ただ奪われまいということしか考えることができない、狂気の沙汰なのだ。
わこの名前――わこがわたしにつけてくれたわたしの名前は消えてしまった。ひとときの猶予もなく、わこの死と同時に消えてしまった。わこのわがままは、世界に聞き入れてもらえなかった。
――あいねず。え、これいい。素敵だよ!
鼠は嫌いなのに、わこももっといい候補を上げてくれていれば良かったのに。
わたしの記憶に残った名前は、あいねずだった。世界に奪われなかったわたしの名前は、あいねずだった。
大空と海に囲まれた岬の先で、わたしはわこのぬくもりを抱くだけの岩になった。来る日も来る日もぬくもりを抱いて、繰り返し繰り返し思い出を辿る。ふと意識を外に向けると、灰色の岩肌は、あの日ぱそこんに映っていた色に似ていた。わこが指さして見せてくれたあいねずだ。
呼ぶ人はもういない世界で、わたしはあいねずになった。
最初のコメントを投稿しよう!