スワロウテイル

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 パピヨンが揚羽の作品を読んでいる、という形跡がパッタリと消えて久しい。それでも少し前まで他のフォロワーの作品は時折読んでいたみたいだし、SNSで「読みました。素敵です」とリプライを飛ばしているのも見かけた。最近はそのリプライどころか独り言すら途絶え、最後のポストはかなり前に遡らなければならない状態だった。  確かパピヨンは普通の社会人生活を送っていて「仕事中は暇になるとつい小説の妄想をしてしまいます」などと言っていたから、始発で出勤して終電で帰るような漆黒企業戦士ではないはずだった。休みの日も家で机にかじりついているよりはあちこちに出かけていることが多いようだったし、いつも美味しいものやおしゃれな店に足を運んでいる様子を写真におさめてポストしていた。しかし最近は小説の進み具合どころか、そんな日常の何気ない話すらポストしていない。小説サイトのページにもしばらく新作がアップされていなかった。  どこまでも広がっているはずのウェブ上でつくられるコミュニティは案外淡白で、去る者は追わず、それどころか誰にも知られずに筆を置き、創作から離れる存在も多かった。事実、揚羽も好きで読んでいた書き手がいつの間にか作品もろとも小説投稿サイトのアカウントを削除していたときは寂しさこそ感じたが、だからと言って「◯◯さんのアカウントが消えてる!」と声を上げることはせず、また一人この界隈から離れていったという事実を、静かに胸の奥にしまい込んだ。  去る者は追わない。追うべきではない。もしかしたら、小説を読み書きすること以上に胸が震えるものを見つけたのかもしれないし、そうだとすれば目の前を通り過ぎてゆく者の服の裾を掴むことは無粋に過ぎると思った。  しかし、揚羽にとってのパピヨンは、そんな簡単に見送れるような存在ではなかった。編集者に見いだされて書籍化されたり、自分で同人誌を作ったりしない限りは成果物が永遠に実体化しないことからも、小説を書くという行為は賽の河原で石を積み上げ続ける行為に等しいと言える。問題はいくら積み上げても、いざ下を見つめたとき、実際にはどれだけ積み上がっているのかを自分自身で把握できないことだ。何個も石を同じ場所に置き続けてきたのに、いくら目をひん剥いて眺めても、そこにある石は今しがた置いた一個しか見えない。  パピヨンは、いつも揚羽に教えてくれた。揚羽の書き記した物語が、自分のどこに刺さったのか。揚羽の積み上げた石のうち、どれが一番つやつやして美しい色をしているのか。それはすなわち、書き手たる自分にはただの石にしか見えないものが、誰かにとってはかけがえのない宝石に等しい存在となっていることの表れでもあった。  いまの揚羽には、そうやって隣で手を叩いて褒めてくれる存在がいない。誰からも褒められないわけじゃない。でも急にどこからともなく出てきた相手に「もうたくさん積み上がってるよ」と言われて素直に喜べるほど、揚羽は他人に心を開けなかった。  そう声を掛けてくれる存在は他の誰でもなく、パピヨンでなければいけなかった。社交辞令ではなく、心から褒めてくれているのだとわかる存在を欲していたのだった。  誰かに用意されたものではなく、自分で物語を書くという行為は、それなりの学がなければ最初から手を出そうとすら思わない。そのハードルを越えた時点で、自分はそこそこ利口かもしれないと思ったことも事実だ。  失って初めて大切さを実感するなど、馬鹿のすることだと思っていた。  だからこそ、一番の読者を失って、嗚呼ちゃんと自分も馬鹿だった……と自覚した瞬間、小笠原紫希は「長崎揚羽」の物語に幕を閉じることを決めたのだった。
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