19人が本棚に入れています
本棚に追加
私はナイフを下ろした。いづみが缶ビールの中身をシンクに流している間に、キッチンペーパーを取って来てこぼれたビールを拭く。安っぽいカーペットはビールを弾いていた。ビニール素材で良かった。
「あの……」
片付けを続ける私たちに、ずっとうつむいていた奈々瀬がぽつりと言う。キッチンから戻ってきたいづみが、ことさら明るい声を出した。
「奈々ちゃん、センスいいのに男を見る目なさすぎー。あやうく殺人事件になるところだよ」
「……だよね」
奈々瀬は苦笑し、それがそのまま嗚咽になった。
あんな男でも、最初は素敵に見えたんだ。と、奈々瀬は言った。私は嘘でしょ? と思ったが、いづみは「そういうときもあるよねー」と知ったかぶっている。彼氏いないくせに。
「最初は、大雑把なところも可愛く見えてた。でもすぐに違うなって気づいたの。別れたかったけど、あんな人だから話はそらされるし、大学に行くとか言って脅かしてくるし、それで……」
「ずるずる続いてたんだ?」
「うん。大家さんが旅行中の間に、決着をつけようと思って呼んだ。でも、なかなかできないでいたときに駒ちゃんといづみちゃんが……」
再び涙を溢れさせた奈々瀬の背中を、いづみがそっとさする。
「奈々ちゃん、大変だったね。もう大丈夫だからね」
「二人とも、ごめん……迷惑かけて」
「迷惑じゃないって! 奈々瀬の家は私の第二の実家だもん」
「駒ちゃん何言ってるの? それはともかく、これからは私たちのこと、もっと頼ってよね。何があっても奈々ちゃんの味方なんだから」
私たちの言葉に、奈々瀬は泣き笑いの表情を浮かべた。
「……うん、ありがとう。私も、二人の友だちに戻れて良かった……」
私たちは、泣き疲れた奈々瀬を休ませることにしてアパートを出た。歩きはじめて数分後、私はふとエコバッグの重みに気づいた。
「やば、持ってきちゃった」
男を脅すのに使ったペティナイフを、どさくさに紛れて持ってきてしまったのだ。取り出したナイフは、小ぶりながらも静かな暴力の気配に満ちている。ケーキどころか肉を切るのにも便利そうだ。私は思わずあたりを見まわし、ひと気のないことを確認した。
「次、会うときに返しなよ。これに包む?」
いづみがタオルハンカチを出してくれる。私はありがたく受け取り、包んだナイフをバッグに戻した。
「これ、すっごい鋭いよ。刃もメスみたいに薄い」
「きっと、事前によく研いでたんだよ……」
いづみはアパートをちらっと見た。
「奈々ちゃん、それであの男を刺すつもりだったのかも」
最初のコメントを投稿しよう!