江戸での暮らしと不穏な影

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奥様の声に顔を上げると、目と目が合った。 優しいけど、何て悲しい目をしているのかしら。 でも、奥様はもう何年も床にふせっていると聞いている。 悲しくなるのも仕方がないのかもしれないわ。 だとしたら、せめて私に出来る事は…。 「奥様。私の時代の書物を持って参りました。娯楽程度ですが、お聞きになりますか?」 奥様の身体を布団に横たえるのを手伝いながら、私が訊くと、奥様の表情が明るくなった。 「嬉しいわ。最近は、書物を手にしているのも、辛くて…。是非、聞かせてちょうだい」 奥様の声に、私は本を持ってきて良かったと思った。 「昔、昔。お爺さんとお婆さんが住んでおりました。お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。お婆さんが川で洗濯をしていると川の上流から、大きな桃が、どおんぶらこ、どおんぶらこ、と流れて来ました」 「ふふっ。貴女、面白い話し方するのね。もう一度だけ今のところを話してちょうだい」 さっきから、ずっとこの繰り返しだ。 奥様は、私の話す「どおんぶらこ」を気に入ってくれたみたいで、話はその先に進まない。 だけど、奥様が楽しそうに聞いていると、私も嬉しくなる。 窓から差し込む光は、オレンジ色になっていた。
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