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全8室の小さなアパート、少し錆がかってきている階段を上り、琴乃はいつもの101号室へ向かう。琴乃は扉の前でふぅーっと息を吐き出してから鍵を回した。
「ただいまー」
同じ階の人々にわざと聞かせるように、琴乃は少し声を張った。
脱いだ靴を玄関の方へ揃えると、琴乃はリビング兼寝室へ一直線で向かう。琴乃は、ぼふっと控えめにベットへダイブする。この部屋に戻ってきたら必ずする儀式のひとつであった。
「はぁ......落ち着く」
琴乃は枕に顔を埋めると、ゆっくりと深く、何度も深呼吸をした。
このまま少しばかり寝てしまおうかと思ったとき、カコンカコンと誰かが階段を上る音が聞こえてきた。自分の胸に手を当てなくとも、ドクドクと脈打っているのを琴乃は感じた。一歩ずつ足音が近づいてくるのを感じながらも、過去が繰り返される恐怖から、琴乃は一歩も動くことができない。ただ布団をかぶりはぁはぁと荒い呼吸を繰り返すだけである。
コツンと、その足音は止まった。琴乃は息を止める。祈るように琴乃が目をつぶったとき、ガチャンと隣の部屋の扉が開く音が、薄い壁から伝ってきた。
琴乃は布団から這い出て、ベットサイドに置いてある時計を確認すると、19時2分と表示されていた。落ち着こうと、ローテーブルに置かれている飲みかけのペットボトルのお茶に口をつける。息を吐きながら、琴乃は放心状態で薄暗い天井を見つめた。
***
「ファミレス久々だなー」
到着早々、正樹はチャコールの分厚いダブルブレストコートを脱ぐとそう言った。
正樹と琴乃がこうして食事をするのは、かれこれ4回目になる。
2人で食事する時、正樹は必ず仕事終わりで、スーツ姿のまま現れる。
「私、もしかしたら学生以来かも」
普段コンビニでアルバイトしている琴乃は、廃棄の弁当などを持ち帰って、家で食べることが多い。自炊もしているため、ほとんど外食することがなく、今日みたいな日は、琴乃にとって特別な日であった。
「えっ、相当前ってことにならない? 久々って言っても俺なんて半年前くらいの話で」
「それって私がおばさんってこと? 正樹君失礼だよ」
琴乃はいたずらっぽく笑った。
「いやっそういうことじゃないって。ゆっても5歳差でしょ? 大したことじゃないよ」
琴乃が年齢差を気にしていることなど一度も聞いたことが無いが、正樹は何も問題ないことを太字にする。
「そう、かな? だって私が高校生の時、正樹君はまだ小学生でしょ?」
つい最近同じようなことをバイト先の高校生に言われたことが引っかかっていたため、琴乃は正樹に対して意地悪な問いをぶつけてしまう。
「それもさ、よくゆう人いるけど、出会った時にお互い成人だったわけだからさ、その例えって何の意味もないよ」
「それもそっか」
正直腑に落ちないところもあるが、今日の食事を楽しいものにしたいと思い、琴乃はそれ以上余計なことは言わなかった。
***
「うわーすごいね。お皿でテーブルいっぱいだよ」
「これがいいんじゃん」
前菜からパスタ、メインのハンバーグまで、テーブルに所狭しと料理が並ぶ。
この量を食べられるかと少し不安そうな琴乃とは対照的に、正樹は子供のように目を輝かせていた。
「スーツ着てると凄く大人っぽく見えるのに、なんだか不思議だね」
「仕事は仕事、食べるの好きだからさ。あとさ、こうやって料理がたくさん並んでると幸せな気持ちにならない?」
「うーん、それはなんとなくわかるかも」
「実家で暮らしてた時って、家族はいるけど、それぞれ自分のタイミングでご飯食べるから、なんか憧れるんだよね」
「そっか」
琴乃は正樹の過去に一抹の後ろ暗さのようなものを感じて、うまく言葉を紡ぐことができない。
「だからさ、いつか結婚とかして、子どもとかできたら、テーブルいっぱいに料理並べて、みんなでいただきますってしてみたいなってふと思うんだよ」
大人になってから、正樹は一人で食事をしていると、いつも見たことのない仮想の温かい家庭が頭に思い浮かぶようになっていた。
「ふーん。結婚、考えてるんだ」
なるべくがっついていると思われないよう、琴乃は結婚という言葉をなぞった。
「まあね。もう26だし。友達もぼちぼち結婚してきてるしなー」
「それくらいの歳って、確かにそういう時期かもね」
正樹が言う結婚が、将来、私たちごとになるのか自信が持てず、琴乃はそれ以上話を広げられない。
「それにしても一緒にご飯食べるのって、今日で3回目? 4回目?」
「うーんと、4回目かな。なんかそんな気しないね」
琴乃からすると、まだ4回なのかという感じだった。二人は話も合うし、無駄な緊張感もない。大げさに言えば、一年以上の付き合いを交わしているような安定感を琴乃は正樹に感じていた。
「それ俺も思ってた。なんかもっと前からの付き合いみたいだよね」
正樹は確かに確かにと、首を前に振るような大げさなジェスチャーで気持ちを表現する。
正樹が自分と同じことを思っていたこと、またそのことを好意的にとらえてくれていたことに琴乃は心が少し温かくなった。
嬉しくなった琴乃は、二人の出会いについて思い出していた。
「私が働いてるコンビニに正樹君が良く来てくれてたんだよね?」
「何々、馴れ初めの話?」
今度は正樹がいたずらっぽく笑った。琴乃は少し照れ臭かったが、30歳を過ぎても、付き合う前のあまったるい空気感は嫌いじゃなかった。
「そうやってとぼけて、もしかして覚えてないんじゃない?」
「そんなことないよ。もう本当にあのときは仕事が忙しすぎてさ。料理してる暇なんてなかったんだよ」
「へぇー。昔は料理してたんだ」
「地方の時はね。本社に来てからはもう。だって毎日仕事終わるの10時過ぎとかだよ? 頭おかしいって」
文句は言うものの、結局は仕事に向き合っている正樹を、琴乃は素直にすごいなと尊敬している。
「そっか、それでご飯は毎日買うようになったんだね」
「そういう感じかなー。最初は安いからスーパー行ってたんだけど。ちょっと遠いから、それもめんどくさくなって。それでコンビニ」
「スーパーって、駅の反対口のところ?」
琴乃はそこまで離れていただろうかと、ふと疑問に思う。
「そうそう。それでコンビニ行くようになったら、いつの日からか琴乃さんが働き始めてさ」
昔に色々とあった影響で、琴乃には非正規雇用で働かざるを得ない理由があった。
「それで出会ったんだね」
「最初は全然気が付かなかったけど、琴乃さんが俺の人生を救ってくれたから」
琴乃は正樹の大げさな言い回しに笑ってしまう。救うというか、琴乃からすれば、店員としてあくまで普通のことをしただけであった。
「あれはたまたま私が見つけただけの話だよ」
「でも見つけてくれてなかったら、俺は会社クビになってたかも」
2人の出会いはそれほど特異なものではなかった。でも平凡な日々からすれば、運命だとでっちあげるには十分過ぎる出来事でもあった。
***
定時退社が当たり前だった支店から、異動で東京本社に来ていた正樹は、文字どおり忙殺されていた。趣味だった料理にも手が付かなくなり、正樹は毎日コンビニの物で食事を済ませるようになっていた。
今日も今日とて疲れ果てていた正樹は、いつも通りコンビニを訪れる。
2週間ほど前から、タイプの女性が働き始めるようになって、正樹はこのコンビニに通う頻度が増えていた。正樹はもともと気分によって駅前のスーパーとここのコンビニを使い分けていたが、気が付けばコンビニ一択となっていた。
水曜日だというのに、正樹は酷く泥酔していた。入社年次の低い正樹は、上司からの無理な誘いを断る術を知らない。日々の疲労の蓄積と摂取し過ぎたアルコールで意識朦朧としていた正樹は、なんとか正気を保ちつつ、お気に入りの彼女がいるレジへと向かう。
正樹は使い古した重い肩掛けカバンを一度床におろすと、QRコード払いで水だけ購入し、すぐにコンビニを後にした。
正樹は彼女の顔を思い出し、一瞬だけ心がフワッと宙に浮くような感覚を覚えた。
しばらく幸せな気持ちでぼんやりと夜道を歩いていたが、再び急激にアルコールが回り始めたのか、正樹は急な吐き気に襲われた。
近くの小さな公園へとなだれ込む。夜でも明るいトイレでひとしきり吐ききると、正樹は固く冷たいベンチに寝転がった。
その後、次第に焦点も定まらないようになると、折角買った水も飲まず、正樹はそのまま眠りこけた。
***
床に佇むカバンに琴乃が気が付いたのは、正樹がコンビニを出てしばらくしてからだった。中を確認するかしばらく躊躇していたが、琴乃は申し訳ないと思いつつもカバンの中身をチェックした。そこには携帯、財布、仕事用のPC、それに苦しそうなほどに資料でパンパンになっているクリアファイルが入っていた。これを全て失くした人はどれほど後悔しているだろうかと、琴乃は胸が苦しくなった。早く届けてあげたいと考えた琴乃は、何か情報が分かる物は無いかと、刑事ドラマを真似して財布の中を確認した。するとすぐに免許証が見つかり、そこには奥田正樹という男性が印刷されていた。琴乃はすぐにいつものあの常連さんであると合点がいった。あの常連さんであれば明日にでも店に来るはずと琴乃は思い、警察にカバンを届けることはせず、バックヤードの金庫の中に保管した。
翌日正樹が真っ青な顔で、昨日の格好のままコンビニを訪れたため、琴乃は思っていたとおりと昨日のカバンを返したのであった。正樹はレジカウンターを挟んで、脇目もふらずに何度も琴乃に深々と頭を下げた。正樹の何度も謝る様子を見て琴乃は、この人はどこまでも優しくて真面目な人なのだろうなと思った。
それからも正樹は琴乃のいるコンビニ通い続けた。そうこうしているうちに、もともと琴乃が気になっていた正樹は、この間のお礼をしたいと、彼女を食事に誘い出した。そこから先、2人が意気投合するのにあまり時間はかからなかった。
***
琴乃の心配は及ばず、正樹の豪快な食べっぷりで、テーブル上の料理は、もうすでにメインのハンバーグだけとなっていた。琴乃はそのペースに置いて行かれないよう、音を立てないよう気をつけながら、自分のパスタを頬張った。
「まさか忘れるとは思わなかったなー」
正樹は他人事のように自分の行動を振り返る。
「それもカバン丸ごとだよ? もう忘れちゃだめだよ?」
「もうないもうない。二度とあんなミスしないよ」
手と首を横に振りながら、正樹は自嘲するように笑った。
琴乃は正樹に、本当はわざとカバンを置いていったのではないかと聞きたかったが、それはあまりにも自意識過剰だと思い、再び頬張ったパスタと一緒に言葉を飲み込んだ。
「カバンを失くした時は本当に人生終わったと思ったけど、こうやって琴乃さんと仲良くなれたわけだし、何があるか分からないね」
幸せを噛みしめるように正樹はふとつぶやいた。
やはりこのまま付き合う流れになる前に、琴乃は正樹に、あのことについて言っておかなければならないと思った。
「あのさ、えっと......。うーん、言いにくいんだけど」
「......ん? どうしたの?」
正樹は琴乃の真剣な表情に少し驚くと、真面目な話でも受け入れられるようにと、分かりやすく居住まいを正した。
「いやっ、そんなに真剣に聞いてもらわなくても大丈夫なんだけどね」
なんだか歯切れが悪いなと、少しばかり鬱陶しく感じつつも、何か大切な秘密を打ち明けようとしてくれているのかと、正樹は期待する。正樹は琴乃ともう一歩先へ進む足がかりが必要だと考えていた。
「いやっ、やっぱり勇気出ないや......。ごめん。聞いてくれようとしてたのに」
琴乃はどうしても、彼との間で昔あったことを正樹に伝える必要があると考えていた。でも言葉にしようとすればするほど、あのいつもの部屋での出来事が脳裏に鮮明に映し出され、うまく言葉が出てこなくなってしまう。琴乃の中で打ち明けたい気持ちと、それを黙っていたい気持ちが激しくぶつかり合っていた。
「......そっか。無理は良くないよ。言いたくなったら、でね。待ってるから」
思ってもいない言葉口にした正樹は、今日もこれ以上先に進めないのかと、苦虫を嚙み潰したような思いに苛まれた。
***
琴乃は一人せっせと料理をしていた。今日の献立は、卵焼きに小アジの南蛮漬け、里芋とカボスのみそ汁、白米と和食で考えている。調理場として少し不慣れなところもあるが、それなりに順調な手つきで、琴乃は晩ご飯の準備を進めていた。既に白米は研いで浸水させており、小アジの方は軽く小麦粉を付け素揚げし、すでに南蛮酢に付け込んでいる。
他の料理を進めてしまう前に、昨日話せなかったことをやっぱり話したいと、琴乃は正樹にメッセージを送った。正樹が面倒に思わないか、ふと琴乃は不安になる。しかし優しい彼ならきっと喜んでくれるはずだと琴乃は思い返し、銀のボウルを見つけると、卵を4つ割り入れた。
***
――昨日の話の続きをしたいの。待ってる。
正樹のスマホにメッセージが表示される。正樹は純粋に嬉しさを感じつつ、更なる高みを望めることに確実な興奮を覚えていた。
いつもであれば憂鬱な帰り道が、正樹には分かりやすく色づいて見えた。テンションが上がれば疲れを感じている脳の部分がばかになるのか、元気すら取り戻したような感じがしてくる。正樹は普段なら絶対にする気が起きないが、今日ばかりは久しぶりに料理でもしようと思い、スーパーへ向かった。
「うーんと、鍋かな」
久々の料理であれば鍋くらいの難易度がちょうどいいだろうと、正樹は豆腐、肉、野菜と、自分なりの寄せ鍋をイメージしながら買い物かごに入れていく。鍋といえばどうしても誰かと食卓を囲み、その空間が温かそうな湯気に包まれるイメージが湧く。正樹のそのイメージは、自然と琴乃と一緒にいるものであった。これが家族になっていくということなのかと勝手に理解した正樹は、鼻歌交じりに自分の家へと帰っていった。
***
壁掛け時計は、ちょうど23時になるところであった。
琴乃はすべての料理を作り終え、ローテーブルの上には、卵焼き、南蛮漬け、それに家から持ってきた漬物を並べていた。後はみそ汁を温め、白米をよそえばいつでも食べることができる。そこまで準備すれば、きっとテーブルの上は幸せでいっぱいになっているはずだと、琴乃は笑みをこぼした。
階段を上る足音が聞こえる。
今回は間違いない、隣の部屋なんかじゃなくて、私が今いるこの部屋へ向かって来ていると琴乃は確信していた。琴乃は目がチカチカするような動悸に襲われた。
もう既に2階の残り3室の家主は帰ってきている。
「大丈夫。大丈夫」
琴乃は口に出して自分に言い聞かせた。もういつもここで怯えていた私ではないと琴乃はじっと玄関の扉を見つめる。
階段を上りきったのか、足音が止まった。するとすぐにガサガサとビニール袋がこすれるような音が聞こえてくる。
琴乃は過去がフラッシュバックしてくる苦しみと、ようやく解放されるのだという一時的なエクスタシーで脳内がごちゃまぜになっていた。
ガチャンと鍵が回る。
そこには、くぐもった常夜灯の光に照らされた正樹が立っていた。
琴乃は当然のように正樹に言った。
「おかえり」
正樹は重そうなスーパーの袋を両手に抱えながら、目を剥いた。
あまりに自然に佇み、そしてあまりにも柔らかに琴乃が言葉を発したため、正樹はキーンと耳鳴りがするまま、ただいま、と言わざるを得なかった。
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