心配な前兆

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心配な前兆

「幸せなときほど、不幸になる前触れがそろっている」  そんな言葉を残した作家がいるそうだ。これって本当かもしれない。  会社を出て一緒に駅に向かう恭子と健士。特にふたりに注目する通行人はいなかった。だが、だが……。通行人はいなくても「あなたの広告会社」の社員がいた。  須藤みなみ。今は私服姿である。化粧ポーチを会社に忘れたことに、帰宅してから気がついた。自宅に予備があると思っていた化粧品がいくつか切れていた。みなみは自分の不注意にイライラしたが、会社に取りに戻ることにした。時計は八時少し前。まだ会社は開いているはずである。  駅前を歩いているときだった。向こうから見覚えのあるふたりが近づいてくるのに気がついた。みなみはとっさにコンビニの駐車場に身を隠した。駐車の車の陰になり、ふたりからはみなみが見えない。 「ねっ、いいでしょう」 「そんな……。絶対にイヤです。」 「お願いだから。とりあえず三万円でどうかしら」 「ごめんなさい。そんなもの受けとれません」 「ねっ、受け取ってください。これ……」 「もうそんなこと言わないでください」  ふたりがスーパーの前を通り過ぎていく。恭子が積極的に誘い、健士が断固拒否している。明らかにいやがっている。みなみはそんな印象を覚えた。  そっと店頭からふたりの様子を伺う。恭子は健士と肩を並べていた。そして恭子の左手は、健士の右手をしっかり握っていた。 (セクハラ!)  みなみは思わず、心の中でつぶやいていた。恭子が健士に金銭を渡し、自分と関係を持つように強要している。みなみは思わずそんなシナリオを書いていた。 「だけど私の夕食と朝食をつくってもらうのだし、材料費は私が用意しなければ……」 「僕、押しかけの応援団です。材料費なんか受け取れません。僕、家政婦さんじゃありません。応援団なんです」  残念ながら、この会話をみなみは聞いていなかった。みなみは有頂天だった。口うるさい女性上司の弱みをつかんだと本気で確信していた。  だが時間が経つと、気持ちが落ち着いてきた。 (でも主任に限ってそんなこと……。やっぱり誤解だ。忘れよう)  これで全てが終わる筈だった。だがそのときだ。 「あれ、須藤さんじゃないか」  背中で山崎の声がした。みなみは驚いて振り返る。 「まさか、こんなところで会うなんてな。今まで松山さんと飲んでたんだ」  山崎は声を落とす。 「色々、協力して欲しいと言われた。見ろよ、このボトルのプレゼント。須藤さんも杉野の弱み探ってくれよ」  山崎の言葉に、みなみがハッとする。山崎はみなみの様子を見逃さなかった。 「何か知ってるのか?」 「待って、そういうワケじゃ……」 「隠すなよ。いいか、杉野を追い出したら会社から特別ボーナスがあるんだ。欲しくないのか?」 「それは……」 「飲みながら話そう」  山崎はみなみの袖を引っ張って喫茶店に急いだ。みなみは化粧ポーチに心を残しながら、山崎についていった。 (ムカつく主任を追い出すんだからいいか。フェイクを話すワケじゃないし……)  みなみは恭子から注意されたときの屈辱を思い出した。全部が全部、自分の過ちだということをすっかり忘れていた。ただ同僚の前で恥をかかされた怒りだけが心に残っていた。  みなみと山崎が喫茶店で、どんな会話をしているのか? 恭子も健士は何もしらない。途中でスーパーに寄り、三十分後には恭子の住むコーポに着いていた。  恭子はといえば、健士がいるので、部屋着に着替えることはしなかった。ふたりは一緒にキッチンに入った。健士は恭子をテーブルの椅子に座らせた。恭子に源氏物語の全訳本を手渡した。 「どうぞ。僕、ディナーを用意します」  健士は用意してきたエプロンをつけた。ピンクのエプロンがとってもお似合いで、抱きしめたいくらいに可愛らしく見えた。
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