帰したくない君のことを……

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帰したくない君のことを……

 恭子はキッチンで『源氏物語』の全訳を読み進めた。本来なら寝室兼書斎で読むべきだが、健士がすぐ見えるところにいたかったのだ。  健士は手際よく食器を洗って片付け、お風呂の用意をする。 「掃除や洗濯とかはプライベートを見てしまうことになるので遠慮させて頂きます。でも必要だったらおっしゃってください。このコーポは防音設備が整っているから、ほかの家に迷惑をかけることはないと思います」  恭子は内心、健士のリサーチに驚いていた。このコーポは会長がまだ社長だったときに紹介してくれたものだった。そればかりか保証人にもなってくれた。恭子にとって、お気に入りのわが家だった。  健士は恭子をとことん応援するため、このコーポの構造まで、ちゃんと調べてくれていたのか?  健士にもっと長くいて欲しい。掃除をして洗濯をして欲しい。それが恭子の本音だった。  けれども高校三年の健士は、いくら大学への推薦入学が内定しているとはいえ、勉強の時間が必要だ。これ以上、引き止めてはいけない。 「ありがとう。もう遅くなるから日下くんは帰って構わないですから……」  恭子は、出来るだけ落ち着いた口調で健に答えた。健士は一瞬、寂しそうな表情を見せた。まるで涙を隠すようにしばらくうつむいていた。時間にして一分くらいだっただろうか?  サッと顔を上げたときは、またいつものはにかんだ表情を見せてくれた。 「分かりました。明日朝、六時に朝食をつくりに伺います」  健士はスクールシャツの上にブレザーを着て、帰り支度を始めた。本音を言えば、健士がこのまま帰宅することに、恭子は内心後悔していた。健士がそばにいてくれれば、『源氏物語』の読書だって進むはずなのに……。  それでも恭子は平静な表情を崩さないようにこころがけていた。健士の将来のためにも、絶対にこれ以上、束縛してはならないのだ。 「それでは僕……」  恭子が見送りのために立ち上がろうとする。 「そのままで結構です」 「でも……」 「そうだ。これ、『源氏物語』について僕がまとめたものです。よかったら参考にしてください」  健士がクリアファイルを差し出す。一枚目に『源氏物語の魅力~五十四帖「桐壺」~「夢浮橋」』とタイトルのついたプリント用紙が三十枚近く入っていた。 「分からないところが出てきたら、これを読んでください」  恭子は思わず健士の顔を見直した。普通の高校三年生だと思っていたのだが、源氏物語については専門家のようだ。優しいだけじゃない。健士は心強い味方なのだ。 「日下くん、ありがとう」 「それから……」  健士が突然、ひざまずく。そのまま、ガーターストッキングを履いた恭子の左脚に顔を近づけた。マシュマロのように白く盛り上がった太腿の肌に唇をつけた。一瞬、恭子の身体が真夏の炎天下にさらされたように熱くなった。左脚の太腿が、顔がほころぶほどくすぐったい。そして極上のワインを飲んだように気持ちが高揚し、口の中が甘ったるくなった。太腿の根元の部分がピクピク痙攣しているのがよく分かる。健士の舌先の感触を肌に感じたとき、太腿ばかりか体全体がのけぞるような甘い衝撃が貫き、思わず荒い息を吐いていた。 「ごめんなさい。でも大好きです」  それが健士の別れの言葉。急ぎ足で部屋を出ていった。恭子の目から滝のように涙があふれ落ちた。こんなに感動したことは長いことなかった。こんなに力がみなぎったことだって長いことなかった。  『源氏物語展』を必ず自分の力で成功させるという思いの下、熱い体で全訳本を読み進める。太腿の甘くてくすぐったい感覚がいつまでも恭子の心をウキウキ、ドキドキさせていた。
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