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季節が変わっていった。子供たちが成長していった。スタッフが入れ替わっていった。数年が経った。街の人が私を奇異の目で見ることはなくなっていった。時の流れが事件を人々の記憶から消していったのだ。
それでも私は、博士のことを信じていた。私だけが、変われなかった。
「ありがとうございました」
「エルちゃん、また明日ね!」
「はい、また明日会いましょう。お気をつけて」
少年が母親と手を握って帰っていくのを見送る。食堂を閉める。今日はほかのスタッフが用事により帰宅したために、一人で残りの作業をしなくてはならない。時計は夜の九時を指している。
口紅とネイルの赤が印象的な母親だった。彼女はいつも食堂の営業時間の最後にやってくる。きっと仕事が忙しいのだろう、ということにしている。深く詮索しないのはここのスタッフに教えてもらったことだ。
スタッフの部屋まで戻り、記録をノートにつける。収支などの金銭的なものはもちろん、冷蔵庫の中身や子供の相談事まで。
頭の中だけではなく、こうして出力しておけばどのスタッフも見ることができる。ノートは私が来てから十数冊にもなり、棚の一部を確かに占領している。
前回の別のスタッフの記録を見つつ、今日の出来事を記録していく。味噌が足りなくなっているから明日買う、とメモをする。さらさらとノートにペンが走る音だけが響く空間に、突如インターホンの電子音が割り込んだ。
こんな時間に珍しい。さっきの親子が忘れ物でもしたのだろうか。
モニターを見つめると、そこには知らない男性がいた。一瞬警察に通報しようと考えがよぎるも、それはすぐに吹き飛んでいった。
画面に映っているその顔は、知っている顔だったからだ。しかも、記憶装置の中の一番古いところに、一番最初のところに保存されている人間だった。
ドアを開ける。
彼は挨拶もなくいきなり開いたことに驚きながらも、私を見て顔をほころばせた。
「会いたくて、連絡する前に来ちゃったよ。あはは」
痩せた体、変わってしまった髪型。それでも、声としぐさはあの頃の彼と同じで。
「冤罪だったよ。やっと証拠が出てきたみたいでね。すぐ釈放されたよ」
説明をする彼の瞳から、涙がぽろぽろとこぼれる。
「エルのこと、聞いてたよ。ここでスタッフとして働いてるって。子供たちに人気のお姉さんだって」
彼は笑っているのか泣いているのか、なんだかよくわからない顔で、私を見ている。
「エル、ただいま」
その言葉を、何年、待っていたことか。
「博士!」
私の瞳からも、涙がこぼれた。博士に実装してもらっていたこの機能が、初めて動作した。それくらいの感情が、私の中に生まれていた。
博士は私をきつく抱きしめた。私にはない、温かな体温が伝わってくる。彼の心臓の音は一般的な早さよりも早く、彼が喜びという感情に満たされていることがわかる。
「エル、生きていてくれてよかった」
「はかせ」
「もう、絶対、離れたりなんてしないから」
「はかせ……」
「寂しかったよね。ごめんね」
「はかせぇ……」
私は声を上げて泣いた。涙で服を濡らしてしまっても、彼は怒ることはなかった。
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