トリモドス。

1/1
前へ
/1ページ
次へ

トリモドス。

「お疲れ様でした、鈴木さん。今日はここまでにしておきましょう」  今日もカウンセリングが終わった。いつも通り、何の収穫もないまま。  凄腕の臨床心理士、として業界では有名で、実際に医療関連の雑誌でいくつか連載を持っている人気の先生らしい。顔写真付きで特集記事が組まれているのも見たことがある。歳は四十代中頃だと思われるが、清潔感があり、スタイルも良く、顔立ちも整っている。そのあたりも人気の理由なのかもしれない。  そんな先生のもとに、週二回のペースで半年ほど通っているものの、あたしの症状になんら変化はない。  最初は、入室のたびに緊張したこの診療室だけど、半年も通ったことでだいぶ慣れた。  八畳はあると思われる、広々とした室内。  あたしと臨床心理士の先生を隔てる、大きくて高級感のあるローテーブル。  ふかふかの椅子。  棚に並ぶ大量の小難しそうな本。  そして、部屋の入口の横に置かれたパキラと、部屋の奥の隅に置かれているモンステラ。観葉植物好きのあたしは、入室のたびについ目をやってしまう。今では、この部屋はあたしの落ち着く空間の一つとなった。 「あの、先生」先月あたりから、言おう言おうと思っていたことを、ついに伝えることにした。 「ん? どうしました?」 「このカウンセリングって、いつまで続けるべきでしょうか? 先生ほど有名な人が、半年もやって駄目なら、もう厳しいんじゃないかな、って」  先生が一生懸命やってくれていることはわかっている。でも、聞かずにはいられなかった。  先生が、ニコリと笑いながら言う。 「僕としては、鈴木さんが記憶を取り戻すまで続けたいと思ってますよ。――迷惑かな?」 「いえ……。そうじゃないですけど……」 「焦らなくていいんですよ。何度か説明していますけど、解離性健忘は回復まで時間がかかることが珍しくないんです。でも僕は、いつか必ず鈴木さんの記憶を取り戻してみせますので、諦めないで付き合ってくれると嬉しいです」  あたしはまったく覚えていないのだけれど、中学校からの帰宅中に交通事故に遭ったことで、解離性健忘という記憶障害に陥り、人間関係に関する記憶が綺麗さっぱり抜け落ちてしまったらしい。失った記憶を取り戻すため、あたしはこのクリニックに通っている。 「……わかりました。それじゃあ、また明後日に」  そう言って椅子から立ち上がり、軽く一礼してから退室した。  カウンセリングは火曜日と木曜日。今日は火曜日なので、明後日もカウンセリングだ。 *** 「明後日も、また行かなくちゃいけないんだなぁ……」  帰り道、周囲に人がいなかったこともあってか、つい声にして出してしまった。  今通っているクリニックのホームページによると、一度のカウンセリングで八千円かかるとのことだった。あたしは週に二度通っているから、月に八回と考えると、毎月六万四千円かかっていることになる。こんなにもお金をかけて、結果の出ないカウンセリングを受ける必要なんてあるのだろうか?  父親が過労死で亡くなったことにより、多額の生命保険が入った。『ママ』とされる人からはそう聞かされている。だから、都内にある3LDKの一軒家にも住めているし、週に三回ほどスーパーのレジ打ちをしているだけの『ママ』でも、あたしを養えているらしい。とはいえ、無駄にお金だけかかる上、カウンセリングが終わるたびに失望する生活には、いい加減疲れた。  あたしは、今後どうなってしまうんだろう。このまま記憶が戻らず、なんの思い入れもない女性を母親として受け入れながら、生きていくしかないのだろうか。  不安と焦燥が連鎖し、あたしの心をじわじわと蝕んでいく。  ほんの少しでもいい。何か突破口が欲しい。どんな小さなものでもいいから……。 *** 「おかえり、香織! 今日はどうだった?」  ママとの二人暮らしには広すぎる3LDKの一軒家に帰ると、必ず飛んでくるいつもの言葉。暗い気持ちになりながら答える。 「ごめんね。今日も何も思い出せなかった」 「うん、そっか! そんなに簡単にいくわけないもんね! 全然気にしなくていいんだからね!」  笑顔ではきはきとそう言ってくれる。いつもの展開だ。あたしに気を使ってくれているのだろう。 「ありがとう、ママ」  ママ、と呼んではいるけれど、今でもしっくりこない。こんなこと、この人には言えないけど、あたしにとっては「実の母とされている見知らぬ中年女性」でしかない。これまでの記憶がないのだから。  知らない中年女性との二人暮らしは、ただただ気を使うだけなので正直ストレスが溜まるけど、まだ中学生三年生のあたしが生きていくためにはこの人に頼るしかない。「本当にこの人は母親なのだろうか?」と疑問に思うこともあるけれど、わざわざ身銭を切ってここまであたしの面倒を見てくれているということは、母親なのだろう。でも、記憶がないだけに確信が持てず、心がついてこないのがつらい。  あと、不謹慎かもしれないけど、父親がすでに亡くなっていて、シングルマザーとしてあたしを育ててくれている状況には「助かる」という気持ちがある。だって、父親までいたら、「知らない中年女性」に加えて、「知らない中年男性」が増えるだけなのだから。 ***  翌日、水曜日。あたしは、自室の学習机に向かっていた。  記憶を失ってからのあたしは、中学を休学している。代わりに、家庭教師が自宅に来て、一日五時間、みっちりと勉強を教えてくれる。  家庭教師は『三上順平』という人で、塾講師としてカリスマ的な人気を誇っているらしい。年齢は、臨床心理士の先生と同じくらいだと思われるものの、見た目は大きく違い、いかにも『おじさん』という感じで、お腹も出てるし、髪も薄いし、あまり好意は持てない。  家庭教師というと大学生のイメージだったから、家庭教師との初対面の時はワクワクしていたのに、三上さんと会った瞬間、現実は甘くないと思い知らされた。  ちなみに、記憶を失っているのに、「家庭教師といえば大学生」みたいな特定のイメージだけは残っていることに、当初は驚いたものだ。臨床心理士の先生が言うには、何かに関する記憶がすっぽり抜け落ちてしまっても、本人が持っている感覚や概念だけは残る、というのは特に珍しいことではないらしい。脳の作りというのは実に不可解だ。 「よし、今日は数学を中心にやっていこうか」  三上先生が言う。この言葉に、少しホッとする。歴史や生物など、記憶メインの教科については忘れていることも多いのだけれど、計算能力や情報処理能力は記憶と関係ないので、今でも普通に対応できる。 「お願いします!」  記憶障害を意識する機会が少ない数学の勉強時間は、あたしにいくばくかの心地よさを与えてくれた。 ***  翌日、木曜日。今日は、カウンセリングに行く日だ。  この日、あたしは、前々から考えていたことを思い切ってママにお願いしてみることにした。 「ねぇ、ママ。ちょっといい?」  仕事が休みということで、まだ昼下がりだというのにリビングでお酒を飲んでいるママに問いかけた。あたしが記憶を失い、他人行儀な態度を取るようになったことが耐えられず、お酒に逃げているのかもしれない。 「どうしたの?」 「うん。あのさぁ……。今日、あたし、カウンセリングに行くでしょ?」 「そうだね」 「その前に、どうしてもやりたいことがあるんだけど」 「やりたいこと?」 「そう。――あのね、ママが、ずっと『絶対に入らないで』って言ってた、亡くなったパパの部屋に入りたいの」  お酒の入ったグラスを口に運ぶママの手が、ピタリと止まった。  数秒の間があった後、明らかに動揺した様子でママがボソリと言った。 「ど、どうして……?」  あたしは、素直に「自分の想い」を言葉にした。 「もしかしたら、パパの部屋に、あたしが記憶を取り戻すきっかけがあるかもしれないでしょ? なんでもいいから、少しでも可能性があるなら試したいの! 今の状況を変えるきっかけが欲しいの!」  ずっと言えなかったことを、ようやく言えた。  ママとの会話の端々から、今でもパパのことを想っていることは伝わってきた。だからこそ、パパとの思い出が詰まっているパパの部屋には不用意に入って欲しくなかったのだろう。あたしに何かを強要することのないママなのに、「パパの部屋には入らないで」ということだけは口酸っぱく言われていた。  これだけお願いしても、パパの部屋にだけは入れてくれないかもしれない。そんなことを考えていると……。 「――そうね。香織の言うとおりね。少しでも記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないなら、試してみる価値はあると思う」  意外にも、OKが出た。ママも、ここまで長い間記憶が戻らないとは思っておらず、精神的に限界がきていたのかもしれない。 *** 「ここが……パパの部屋……」  部屋の鍵を渡され、一人で入室したあたし。中は綺麗に整理されていた。向かって右の壁には作り棚が設置されており、無数の本が並んでいる。読書家だったのかな。  床はフローリングで、ごみ一つ落ちていない。きっと、あたしがいない間にママが掃除しているのだろう。二年前に亡くなったと言っていたけれど、この部屋の様子から、今でも父への想いが潰えていないことが伝わってくる。  一度大きく息を吐いてから、鼻で部屋の空気をたっぷりと吸い込む。たくさんの本があるからか、古本屋の店内を薄めたようなにおいがした。あとは、木のにおいもする。木造住宅だからかな。  それと……。 「あれ? 今、何か……」  ほんのわずかとはいえ、脳の一部を刺激された感覚があった。なんだろう、このにおい。どこか懐かしく感じるけど、そんなに遠い存在とも思わない。不思議な感覚だ。  何度か深呼吸をする。どんどん、気持ちが落ち着いていくのがわかる。やっぱり、ここはあたしの家で、この部屋にはあたしのパパがいたんだ。強く、強く、そう思った。  この刺激が、今日のカウンセリングに、少しでも良い影響があるといいな……。あ、もう正午を過ぎてる。そろそろ行かないと。 *** 「さて、始めましょうか」  部屋の隅にあるモンステラを見ていると、先生がそう言った。 「はい」  いつもより、心なしか緊張していた。  禁断の部屋にまで入って、記憶を刺激してきたんだ。これでなんの収穫もなければ、もう何をやっても無駄なんじゃないだろうか。そんな思いを抱えながら、今回のカウンセリングに臨んでいる。 「どうしました? いつもより表情が強張っているけど」  さすがは有名な先生だ。すぐに、あたしの異変に気付いた。 「いえ、あの……」 「何でも遠慮なく言ってください」  いつもの柔和な笑顔を浮かべる。  その笑顔に吸い込まれるように、あたしはここへ来る前の出来事を口にした。 「実は、今日……パパの部屋に入ったんです」 「お父様の?」 「はい。――カウンセリングでも話したので知ってると思いますけど、パパは二年前に亡くなったみたいなんです」 「……」 「パパの部屋に入れば何か思い出すかも、って思って、ママに無理やりお願いして、ついさっき、パパの部屋に入りました。そしたら……その……なんだか不思議な気分になって……」 「不思議な気分?」 「はい。記憶がないはずなのに、なんだか落ち着くっていうか、懐かしいっていうか……」  先生が、珍しく身を乗り出してきた。 「鈴木さん、それはすごく良い傾向です。すぐに、カウンセリングを始めましょう」  こんな先生は初めて見た。いつも冷静で、淡々としている印象だったのに、やけに興奮しているように見えた。半年間進展のなかった患者を治せるかもしれない、ということに色めき立っているのかもしれない。 「じゃあ、いつも通り、その椅子をリクライニングしてもらっていいかな?」  言われるがまま、椅子の右下にあるレバーを引きながら、体重をかける。椅子がゆっくりと後ろに倒れた。カウンセリングを受ける時の定番の体勢だ。 「じゃあ、目を瞑って。全身の力を抜こう。いつもやっている感じでいいよ」  先生の声が、ゆっくり、小さく、優しく、なっていく。カウンセリングの際のいつも流れだ。そんなことを考えている時点で、今日も駄目なのかな。 「鈴木さん、君の体の力は、どんどん、どんどん、抜けていく……。どんどん、どんどん、リラックスしていく……」  これもいつも通りの導入。あたしも慣れたもので、言われるがまま、自然と力が抜けていく。この部屋が、落ち着く環境になっていることも大きいと思う。  それから、あたしの記憶を掘り起こすための言葉を紡ぎ出す先生。優しい声で、ゆっくりと、何度も何度も繰り返す。観葉植物のこと、たくさんの本のこと、パパのお友達だった人のこと、などなど。  こんなの、もう何度も聞いた。  何度も聞いた。  何度も聞いた……はずなのに。 「えっ……!?」  リクライニングされた椅子から、がばっと体を起こす。 「パパのお友達……家庭教師の三上さん……」  口を衝いて出た。  その瞬間、今まで無反応だったあたしの海馬へ、雪崩のようにあらゆる情報が流れ込んでくるのを感じた。  え……? え……? こ、これって……?  記憶が……記憶が戻ってくる!  急激な状況の変化についての説明を求めるように、先生の顔を見る。  反射的に、言葉が漏れ出た。 「パ、パパ……?」  先生は、驚嘆の表情を浮かべた後、一気に涙目になった。 「やっと……やっと思い出してくれたんだね、香織。今ほど、自分の職業に感謝したことはないよ」  その一言を受け、雪崩のように記憶があたしの脳へ流れ込む。  ママは、シングルじゃない。今、目の前にいるパパと、仲のいい夫婦だった。……いや、『だった』じゃない、今でも変わらず、愛し合っている夫婦だったんだ!  大量に流れ込んできた情報の処理に戸惑っていると、パパが椅子から立ち上がり、にこやかに語りかけてくれた。 「今まで、他人の振りをしながらカウンセリングをしてしまってごめんな。父親を名乗る見知らぬおじさんが相手じゃ、変に身構えてカウンセリングに集中できないかな、と思ってさ。だから、ママと相談して、黙っておくことにしたんだよ」  そう言って鼻をすすりながら、あたし方へ歩み寄り、そっと抱き締めてくれた。 「おかえり、香織。――ようやくこのセリフが言えたよ」  感情が決壊したように、パパは号泣しながらえづいている。  もちろん、あたしはそれ以上だ。溺れて死にそうになっている時、浮力を求めて抱きつくように、パパに力強くしがみついた。  そして、お腹の底から絞り出すように言った。 「ただいま、パパ!」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加