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「今宮さん、最近元気がないみたい。忙しくて疲れてる?」
久しぶりに飲みに行こう、と高橋さんに誘われた。なにか話があるのかと思っていたら、乾杯早々に切り出されて驚く。
「忙しいのはいつものことで……いや、実は最近、付き合ってた人と別れまして」
「まあ、そうだったの」
「ああでも、そのこと自体はあんまりショックじゃないっていうか。大丈夫です」
猫の一件から、拓海とのやり取りは疎遠になりつつある。けれど自分で言ったとおり、私はそれほど落ち込んでいなかった。食事量も睡眠の質も変わっていない。ただ、庭で芝生を眺めている時間は増えた。ひと目のない早朝と夜に。
高橋さんは、それ以上聞いてこなかった。料理が運ばれてくると、私たちは導入されたばかりの勤怠管理システムについてのグチと、高橋さんの推し語りと、確定拠出年金の仕組みが意味わからんという話をしながらそれを食べた。
ビールを二回おかわりしたころ、高橋さんはいつもの口調で言った。
「あのね。私、今月で部長を降りることになった」
「えっ?」
「実は母が認知症になってね。夫の両親も要介護者だし、手一杯になってしまって。とりあえず施設に入ってもらうつもりではいるんだけど、しばらくは仕事どころじゃないから」
「それって……あの、会社は」
「会社は辞めないよ! 下の子はまだ学生だし、老後の資金も稼いでおきたいしね。でもまあ、しばらくは家のことに向き合います」
高橋さんは苦笑して、社長がね、と言った。
「この話をしたら、自分も死んだ母が徘徊していたから苦労はわかる、最後の親孝行なんだから、気の済むまでやればいいよって言うの。ちょっと調子のいいヤツだなと思っちゃった。だってあの人、介護なんて全然してなかったし」
私はうなずいた。お母様の葬儀には社員も参列したが、それまで誰も認知症と知らなかったくらいなのだ。
「奥さまが全部、面倒見てくれてたんだよ。なんかずるいなあって思う。……でも社長にしたら、会社と社員を守らなきゃいけない責任があるんだものね。本当は親のそばにいたかったのに、できなかったのかもしれない。私も社長も、お互いに無いものねだりしてるってことなんだよね。隣の芝は青いってやつなのよ」
高橋さんは、自分に言い聞かせるようにひと息で言った。それから「そろそろ日本酒にする?」と聞いた。
私は「そうしましょう」とうなずいて、メニューを引き寄せた。
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