時計のない部屋で

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「葉、久しぶりだな。最近どうだ?」  以前より小綺麗になり、最近ダンディだと持て囃されている芦住マスターが、僕の前に水を置いた。 「まあまあといったところですかね」  吸ってきたばかりなんだろう。マスターから、甘いカフェラテやバニラのような煙草の香りがした。  Lazy Birdにやってくると、アキさんの部屋の匂いを思い出す。遮光カーテンを締め切った、朝も夜も間接照明のぼんやりした灯りだけが照らす部屋。  自分はテナーサックスプレイヤーのくせに、いつもアルトサックスがメインのレコードばかりかけていた。  僕らがすることといったら、棚に飾りのように並ぶウイスキーを飲み、抱き合うことだけ。  一歩も進む気のない部屋に時計はなく、代わりに時折レコードがプツプツという音を鳴らす。    Lazy Birdの芦住マスターを長年思い続けてきたアキさんは、マスター恋しさに同じ煙草を吸っていて、彼女の部屋にはその匂いが染み付いていた。  つまり僕が記憶しているアキさんの部屋の匂いは、マスターの匂いということになるんだろう。  Lazy Birdを辞めて、自分の店を出すまでの間に、煙草を吸うのも辞めたらしく、今のアキさんの家や店に染み付いた匂いはない。  からだのためにも早くやめるべきだと思っていたし、好きだったわけでもないのに、Lazy Birdに来ると、なぜか僕は懐かしい心の軋みを確認するように、この香りを胸に行き渡らせたくなるのだから不思議だ。  二度とアキさんからはしないだろうこの香りを、記憶に留めておきたがっているのかもしれない。不完全だったころの関係のアキさんも覚えておきたいなんて言ったら、「葉くんってバカみたい」と顔も見ないで言われるんじゃないかと思う。気恥ずかしく感じると、照れ隠しなのか、彼女はそういう態度をとるから。
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