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帰宅
警察官のAさんが新人の頃、先輩と二人で夜のパトロールをしていた時のことだ。
前方に、ふらふらと危なっかしい足取りで歩いている壮年の男を見つけた。明らかに酔っている。Aさんは男に声をかけようとしたが、先輩に肩を掴まれ止められた。
怪訝な顔をして振り向くと、先輩は「あの人はいいんだ」と言って、首を横に振った。
Aさんが何故ですか、と尋ねると、先輩は、
「あの人はここいらでは有名な人でな。いつも酔っているが人に迷惑はかけないし、行く場所も分かっている。何も言わずに、見守ってあげなさい」
と、言った。
Aさんは困惑したが、何か理由があるのだろうと思い、黙って先輩に従った。
男は道路の左と右を行ったりきたりしながら、絵に描いたような千鳥足で夜の街中を歩いていく。Aさんは冷や冷やしながら男の背中を見守った。
やがて、ある空き地の前に辿り着くと、男はピタリと動きを止めた。
一軒家が収まるほどの小さな空き地だった。雑草は生え放題で、空き缶やお菓子の空袋がそこら中に散らばっている。
その空き地の前で、男は肩を落として呆然と立ち尽くしている。
「・・・この空き地はな、元々あの人の家があった場所なんだ」
先輩が口を開いた。
「しかし、今から十年ほど前だ。当時、県内を荒らし回っていた放火魔に火をつけられ、あの人の家は燃えてしまった。その放火魔は捕まったが、その火事のせいで、彼の奥さんと娘さんは帰らぬ人になってしまったんだ・・」
男はその時たまたま出張に出ていて、難を逃れたそうだ。しかし、彼が失ったものは文字通り命よりも大きく、それ以降、男は酒浸りの生活を送るようになってしまったという。
そして毎晩、こうして空き地━━自分の家があった場所で、長い時間立ち尽くしているのだそうだ。
先輩の話を聞き終え、Aさんは何とも言えぬ悲しみを覚えた。
男が、ふらふらとした足取りで空き地の中に入っていく。
先輩の方へ目をやると、「あれもいつものことだ」と言って、ため息を吐いた。
「あの人はな、誰もいない空き地で、必ず『ただいま』と声をかけるんだ。そして、返事の返ってこない空き地に一人座り込み、静かに泣き始める・・」
先輩の言った通り、男はすうっと息を吐くと、ただいま、と言った。
Aさんは見ていられなくなり、目を逸らした。その時だった。
━━━おかえりなさい。
女性と小さな女の子の声を、Aさんと先輩は確かに聞いたそうだ。
男が大きく口を開け、何かに手を伸ばす仕草をした。その指先が一瞬、何かに触れたように小さく弾んだ気がした。
男が、ゆっくりと地面に倒れ込んだ。
我に帰ったAさんと先輩は慌てて男の側に駆け寄った。しかし、彼はすでに事切れていた。
「私は長く警察官をやっていて、何人ものご遺体を見てきました。ですが、あれほど綺麗な死に顔は、後にも先にも見たことがありません・・・あの人は、最後に自分の家族の元に帰ることが出来たんでしょうな」
そう言って、Aさんは穏やかな笑みを浮かべた。
<了>
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