バニラの海になる

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「世界で一番純粋な青なんだよ」  星月夜に未明は言った。  渦巻く夜空にやけに大きな三日月と星たちが浮かんでいる。オベリスクのような糸杉が天高く伸び、その麓にはこれもまたオベリスクのような尖塔を持った教会のある街が広がる。  未明はゴッホの『星月夜』のスマホカバーを愛しそうに見つめていた。その眼差しが俺に注がれることはもうない。未明は緑のクリームソーダをカラカラと回した。 「『ローヌ川の星月夜』と『夜のカフェテラス』の青もいいよね。みんな青なのに全部違う青。ゴッホの青は一色じゃない」  俺はバニラアイスを一匙突いた。抉れた球体が青のクリームソーダの上で軽く弾む。 「ゴッホの色彩は熱狂的なんだよ。複雑なのにすごく純粋。ゴッホの青は、世界で一番純粋な青なんだよ」 「じゃあ熱いのかな」 「熱い?」  未明のコロンとした瞳が『星月夜』から俺に移った。それで少し安心して、笑みを送る。 「青って一番熱い色じゃん? だから熱いのかなって」 「あはは、どうだろう。絵の具に温度があれば確かめられるけどね」  未明は俺のクリームソーダを見た。 「それ熱い?」 「クリームソーダが熱かったらグラスがバニラの海になってるよ」 「それもそうか」  狭苦しい店内に飛び交う作業音と客の会話がやけに耳につく。俺たちは口寂しくなってソーダ水を啜った。俺はスマホで時間を確認する。 「夜に予定あるんだよね」 「うん。でもまだ時間あるからいいよ」  夏の夕暮れは永い。それが人工呼吸器をつけたような俺たちの関係を縛りつける。 「来月に国立西洋美術館で新しい展示始まるんだけど、行く?」  未明は艶が走る黒髪を耳にかけながら聞いた。髪伸びたな、なんて思いながらもうる答えに逡巡するふりをする。 「んー、いいや」 「だよね。ごめん」 「謝んなくていいよ。俺に絵画の良さがわからないだけだし」  今のは失言だったかもしれない。今まで何度も一緒に美術館に行ったことがあるが、俺には絵画の良さが全くわからなかったし、興味すら微塵も湧かなかった。未明が好きだから自分も好きになれると思ったのは幻想に終わった。  未明は「そっか」とだけ返してソーダ水を啜った。途端に罪悪感みたいなものが喉をせり上がってきた。 「ごめん。でもゴッホの青は俺も好きだよ」 「月日くんは青いクリームソーダが好きだもんね」  未明は目を細めて笑った。彼女に色をつけるなら黄いろだと思った。『ひまわり』の黄いろ。 「別に好きじゃないけど、無意識に選んじゃうんだよね」 「それが好きってことだと思うよ。考えなくてもいいほど盲目になってる証」 「なにそれ? 宗教じゃん」 「宗教だよ」  未明は一段と笑みを深めた。釣られて俺も笑った。よかった。まだ俺たちは笑い合える。でもそのあとに会話はなにもなくて、ずるずるとソーダ水を啜りながら時間を引きずった。喫茶店を出た頃には暮れ泥む薄明に世界が青く染まっていた。
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