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コヨイ
感情を内に仕舞うのは善くないことだよ、と圓朝に忠告された採菊は、吹雪とともに落語の台本を書いていた。
結末がああでこうでと圓朝の指示通りに書き終えることができた。
机につくといつも通りの筆仕事が心落ち着くので採菊と吹雪にとっては幸せな時間だ。
美濃国に勇蔵という幼い少年がいた。彼は後の大物作家坪内逍遥その人である。勇蔵はいつものように一人で圓朝の落語を聴くために寄席に行っていた。
『あれは天下一の落語家三遊亭圓朝の牡丹灯籠じゃねえか。間近で圓朝の噺を聴ける俺は幸せもんだなあ』
そんな勇蔵は、帰りに儚げな美しさを持つ美少女に出会う。
自分は年端もいかない少年だが、その少女の年齢は15歳くらいだろう。
『浮世絵に出てきそうな美人だな』
勇蔵は思わずその少女の美しさに心を奪われてうっとり見る。
色素の薄い長い髪は綺麗に結わえられていて、簪は菊の花を象っている。
菊の花模様が描かれた振り袖を着た美少女は、沈黙したままこちらを見つめていた。
浮世絵に出てきそうな美人だな、と勇蔵は意識が混濁しているかのような感覚に襲われる。
勇蔵の手から銅銭が落ちる。
地面に転がり落ちる銅銭を直ぐ様拾おうとする勇蔵。
「落ちちまった……」
勇蔵の嘆きに動揺するかのように少女は目配せする。
「拾います」
そんな勇蔵の言葉を無視して少女は地面にかがむ。
少女がかがむと着物の裾がはだけて白くて細い脚が丸見えになった。
勇蔵は慌てて少女の着物の裾から目を逸らす。
視線を他の方へ逸らすと手首を少女に掴まれた。
「これ、あなたの……?」
少女の問いに勇蔵はコクッとする。
今まで言葉を発さなかった少女を見て勇蔵は腰を抜かす。
「はい……」
少女と勇蔵の互いの前髪と吐息が触れ合いそうな距離だ。
少女は勇蔵に銅銭を渡す。
「有り難う……」
少女は素足に下駄を履いている。勇蔵自身も素足に草履を履いていたので別に痛そうだなとは思わなかった。
「俺は寺子屋に通ってる坪内家の十男で名を勇蔵と云います」
「私は条野採菊。人情本を書いてる」
勇蔵は今まで人情本を読んだことがない。
採菊と名乗った少女は、勇蔵に一冊の本を渡す。
「これは……?」
「私の書いた本。暇な時に読んで」
手渡された本を勇蔵は大切に抱える。
一生大事にします、と勇蔵のちの坪内逍遙は嬉し泣きした。
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