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シャツのボタンをきちりと留め、鏡を見て制帽の位置を正した。
入れ替わりの同僚に手を振ると待機室を出た。
無機質な廊下を通り、すれ違う人に会釈をする。
何度か飲みに行ったことがあるグランドスタッフが上目遣いに俺を見ると微笑んだ。
軽く立ち話をして、次の約束をして別れた。
出口にある全身鏡を確認する。
シャツの肩のしわを伸ばすと、一度咳をして息を吐いた。
少しだけ重いドアを開けた。
その先には大きなガラス窓から入り込む日差しに照らされた空間が広がっている。
あまりのまぶしさに、思わず目を細めた。
いつまでたっても、慣れない光景だ。
遅れてきた同僚が後ろから声を掛けてきた。
手を挙げて、彼が追いつくのを待った。
振り向いて窓の外を見た。
並ぶ飛行機の向こうに見える空は、その機体の青より青かった。
先週、契約期間更新の手続きをした。
また1年働ける。
空港保安検査員の仕事を始めて3年目になろうとしている。
毎年の契約が更新されるとほっとする。
この時期は同僚と正社員になれるかどうかという話と金の話ばかりだ。
交代メンバーと替わると、客の荷物を受け取り、X線検査装置に放り込む流れ作業が待っている。
交代の彼女に声を掛けた。
「替わりたくないのに。」
「なんで?」
「今、ほらあの人たちが来てる。」
「あー、中で待ってれば?」
「待ってたら先輩に怒られるもん。あーぁ、顔だけならあんたも負けてないよね。」
「何、それ。どういう意味だよ。」
「イケメンでもお金持ちじゃなきゃ意味ないの。じゃあ、後よろしく。」
肩をぽんっと叩くと、彼女は待っていた同僚と一緒にバックヤードに向かって行った。
彼女が気にしている一団は、よく空港に来た。
出張なんだろう、多いときは週一で飛行機を利用していた。
仕立ての良さそう(良さそうに見えるだけでよくわからない)なスーツに身を包み、いつも汚れが見当たらない靴を履いていた。
彼女曰く、有名な企業の社員らしく、SNSでそこそこ有名な社員もその中にいるらしい。
国内海外問わず、普通は2、3人で行動しているようだった。
彼女に言われた一言が頭をよぎった。
「お金持ちじゃなきゃ意味ない」
別に大した言葉じゃない。
事実だし。
それでも、なんとなく嫌な気持ちになった。
ただ卑屈なだけだ。
契約社員の自分とは違う、あのガラス窓から差し込む日差しのように眩しい世界にいる彼らが羨ましいだけだ。
彼らが足を止めてこちらを見た。
遅れてきた同僚社員が来たようだ。
彼はよく見かけるひとりだった。
他はスーツを着こなしているが、彼はいつもTシャツだった。
靴は綺麗だったが、Tシャツを着ているだけで少し親近感を感じていた。
大きめのTシャツから覗く腕は、最近鍛えているのだろう、初めて見た頃よりは男らしくなっている。
大勢の客の一人なはずだが、同僚の彼女が騒ぐのもあるが、誰よりも目につく存在になっていた。
その会社の名前がテレビやネットで目にすることが多くなり、それに比例するように、空港に現われる頻度も高くなった。
気が付けば、彼らの会話の中でTシャツの彼の苗字を把握していた。
同僚の彼女情報で、年齢が同じだと知るとさらに親近感が沸いた。
なんで彼ばかり気になるようになったのかは分からない。
同じ年齢だからか、雑誌に載っていた俺が欲しかったカバンを持っていたからか。
別にわざわざSNSを見たりもしないし、目で追ったりしているわけじゃない。
検査場で、彼が通り過ぎる間、視界に入るだけだ。
ただ一度、彼が金髪にした時は、その肌との白さの境界線が分からず、触れてしまいそうになったことはある。
自分の行為に驚いて、彼のカバンを落としそうになった。
それでも、彼はただ俺の前を通り過ぎていくばかりだ。
背の高い同僚が彼に声を掛けた。
早く来るように急かしている。
カバンを受け取った。
カバンが装置に吸い込まれていく。
後は、彼がいつも通り俺の前を通り過ぎるだけだ。
金属探知機の中を通って、光射す場所へと。
仕事を始めて、思ったより単調な毎日と、自分の稼ぎじゃガラス窓の向こうに行くのが難しいことに気付いて、少しだけ嫌気がさしていた。
そんな時期に、彼と出会った。
会社の人たちと楽しそうに笑う彼の少し高い笑い声が、ただ単純に羨ましかった。
それでも、彼を初めて見てから1年、彼は俺でも分かるくらい洗練されていった。
いつもTシャツやシンプルなブルゾンで気取らないが、纏っている雰囲気が変わった。
その分、疲れていたり眠そうだったりした。
俺の前を通り過ぎるだけだが、彼の頑張りを感じられる程度には近い距離だ。
たまに嫌な客が来たり、それをいつの間にかうまくあしらうこともできるようになった俺と何が違うと言うのだろう。
俺も彼も生きていて、少しづつ変わっていく。
羨望は、穏やかにより深い親近感に変わっていった。
通り過ぎる度に、心の中で彼を応援している自分がいた。
距離は何も変わらない。
世界の違いも感じるが、勝手に感じるシンパシーは、俺だけじゃないかもしれない。
最初は、会釈をされた。
目が合った訳じゃない。
俺の前を通り過ぎる時に、軽く頭を下げた。
気のせいかと思った。
3週間後、彼がまた会釈をした。
気のせいじゃないことに気付いた。
気付いたからといって、次の客がいるし、彼はすぐに通り過ぎるから何ができるわけじゃない。
それから、半年が過ぎた。
空港に来る度に、俺がいるゲートをくぐる。
またその日も会釈をしてくれるのかと期待した。
彼が通り過ぎるのを待った。
胸が少し高鳴ったことを覚えている。
彼は、顔を上げた。
そして、俺と目を合わせた。
初めて大きな黒目が、俺を見た。
びっくりした俺に気付いたかもしれない。
震えるように受け取ったカバンはいつの間にか装置に消えた。
そして、動揺したままの俺を残して彼は通り過ぎた。
この感情は、何に変化したのだろうか。
思わずにやけた顔は、馬鹿みたいだろう。
噛んだ唇は、微笑みを隠すにはもっと強く噛む必要がありそうだ。
思わず首を伸ばした。
さっき俺を見上げた彼は同僚に肩を組まれて去っていく。
その親密な光景が、俺の気持ちを冷静にした。
どうにもならない思いは、この場所に置いておくしかない。
この向こうにはいけないし、
良く分かっているはずだ。
彼は通り過ぎるだけだ。
それからも、彼は会釈をしながら俺を見た。
彼の大きな目は、俺に期待を抱かせるけど、洗練された彼らの雰囲気は、彼の行為の意味を勘ぐる必要のなさを教えてくれた。
何でもないことなんだ。
俺が意識しているだけで。
世界の違いは空のように広い。
そう思っても、並ぶ彼を見つけると胸は弾んだ。
今日も吸い込まれたカバンは、何事もなく装置を通り抜けた。
だけど、彼は、金属探知機をくぐる前に、俺を見上げた。
そして、小さな声で、
「お疲れ様です。」と言った。
間近で、彼の頬が動いたのを見た。
少しだけ、頬が赤くなっていた気がする。
次の人のカバンを受け取り、いつもの工程に戻る。
受け取っては、流す。
衝動的に、彼の方を振り向いた。
目で追うことは今も今までもしたくなかった。
俺が行けない世界にいる彼を見るのは、切なくなるような気がしたからだ。
大きなガラス窓から、明るい日差しが射しこんで輝く。
待っていた同僚の元へ歩く彼が、こっちを振り向いた。
驚いて見開いた彼の目は俺の期待を優に煽って、なんだか胸が苦しくなった。
立ち止まった彼は、困ったように微笑んだ。
通り過ぎるのは、一瞬だ。
いつも、俺の前を通過していく。
眩しい世界にいる彼らの世界をうらやんで、境界線を引いたのは俺自身だ。
彼は、少しづつその境界線を乗り越えてくれていたのに。
通り過ぎるのは、単純だ。
「ごめん、ちょっとここお願いしていい?」
同僚がトイレかと聞いてきたからうなずいておいた。
ゲートの横を急いで通り抜けた。
単純に、とても簡単に。
自分が引いた境界線を通り過ぎた。
会社の人たちが彼を待ってこちらを見ていることに気付いた。
それでも彼は、その場を動いてなかった。
息切れしたのは、走ったからじゃない。
まだ、目の前にいる彼の世界に慣れないだけだ。
眩しくて仕方ない。
制帽の位置をきゅっと正した。
俺を見上げた彼は、初めてちゃんと彼を見た俺に微笑んだ。
「・・・あの、」
「はい。」
瞬間的に行動に移したせいで、言葉は何も出てこなかった。
「明日の夜に帰ってくるんです。」
言葉が出てこない俺にじれたのか、彼がそう口にした。
見た目より、男らしいのかもしれない。
彼の赤らむ頬との違いに肩の力が抜けていく。
「じゃあ、明日会えますか?」
熱くなったのか、頬に手の甲を添えて、嬉しそうに微笑んだ。
「大丈夫です。」
その時、彼が同僚に名前を呼ばれた。
はっとしたかのように彼が背を向けた。
そして、顔だけこっちを向いた。
「名前、名札の名前ですよね?」
背筋を伸ばして、名札を見せた。
「そうです。」
自然と顔がほころんだ。
小さな声で彼が俺の名前を復唱して、明日の到着時間を口にして手を振って去って行った。
俺も背を向けた。
背中に感じる温もりは、日差しだけじゃないはずだ。
立ち止まって、光の先を見た。
青い機体が、空の青との境界を失くして遠く飛んでいく。
明日は、立ち止まってみようか。
ふたりの世界の始まりで、
「おかえり」と「ただいま」の
単純な言葉で。
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